江戸遊里の記憶----苦界残影考

   遊女たちの悲しみに寄り添い歩く

   渡辺憲司著  (ゆまに学芸選書ULULA・2376円)
   川本 三郎 評


      2017.09.24 毎日新聞




 たつた四文字の悲しい手紙がある。女郎屋に売られた読み書きの出来ない娘が、ようやくわずかな文字を覚え、故郷に書いた。「つらおま《(つらいです)。詩人の岩田宏がそう書いている(『渡り歩き』)。

 貧しさのため、身体を売らなくてはならなかった女性たちは、「苦界《を生きた。江戸文学の専門家であり、遊廓の研究で知られる著者は、日本各地に、いまもかすかに面影の残るかつての遊廓を訪ね歩く。

 歴史の旅をしながら、著者はいっときも彼女たちの悲しみを忘れない。「女性たちの深い悲しみを胸にしなければ廓のことを話すことは許されない《

 吉原をはじめ、江戸の四宿(千住、板橋、新宿、品川)、さらに地方に足を延ばし、佐渡や薩摩、筑豊、東北の能代、八戸、関東の平潟、能登の福浦など、実に多くの町を訪ね歩く。苦界追慕行であり、どこか霊地めぐりを思わせる。

 港町、鉱山、商業地。男たちが集まるところには必ず遊里が作られる。貧しい家から買われてきた女性たちが囲われる。現代風にいえば「管理売春《が公けに行なわれる。

 著者は、旅の行く先々で、遊女たちの慰霊塔がひそやかに建てられていることに気づく。

 永井荷風が愛した東京、三ノ輪の浄閑寺にある吉原の遊女の慰霊塔に「生れては苦界死しては浄閑寺《の碑文があることはよく知られているが、それだけではない。

 板橋の文殊院には「遊女の墓《がある。新宿の成覚寺には「子供合埋碑《がある(「子供《とは遊女のこと)。品川の海蔵寺には、「娼妓大位牌《があり、そこには明治時代の数多くの娼妓の吊前が刻まれている。いずれも技倭の主人や地元の人が遊女を憐んで建てた。

 北国街道の宿場町、串茶屋(現在の石川県小松市の西)には、遊女の墓群がある。薄幸の女性たちを丁重に弔っている。その墓には遊女の吊と没年齢が記されている。二十一歳、二十四歳、そして十四歳。

 よってたかって彼女たちを苦しめておいて死んでから墓を建てる。現在の価値観でその偽善を笑うことはたやすいが、著者は、地元の人たちには、懸命に生きて死んだ遊女たちへの深い共感があったのだと考える。

 串茶屋には現在も、遊女の墓保存会があり、町の民俗資料館には遊女関連の資料が展示され、これは全国に誇るべきものだという。「この地の悲心みに寄せるやさしさの結晶と云っていいものだ《

 北陸では一向宗が盛んだった。宗徒は遊女に対する慈悲の思いを持っていた。串茶屋で遊女が手厚く葬られているのは一向宗の影響があるという。

 一般に庶民は、遊里の女性たちのつらさをよく知っていた。佐渡では、若い下男と心中した遊女を悼んで、悲しみを歌や踊りに託して伝えてきた。

 能代では、大正時代、十九歳の芸妓見習いが楼主の厳しい折檻を受は、池に身を投げた。それを知った町民が、怒り、妓楼に押しかけ大騒動になった(能代遊廓騒擾事件)。

 落語の廓詰も、江戸庶民の遊女たちへの共感から生まれている。「江戸の庶民は、遊女のもつ情緒と現実が表裏一体のものであることを痛いほどよく知っていたのである《。貧しさのなかで、遊女となって懸命に生きている女性たちへの敬意といってもいいだろう。

 著者は江戸の遊里を求めて実によく日本各地lを歩いている。秋田県か鉱山のあった院内、富山県の城端、長崎県の平戸……。遊女たちの悲しみに寄り添いたいという想いが、著者を突き動かしたのだろう。