神奈川の記憶 77
   

  1939年の反英運動横浜でも
  対中苦戦の上満支援国へ

  重なる戦死者人々の意識変容


      2017.08.13 朝日新聞湘南版


 

 1939年の夏、日本の世論は外交をめぐり大きな盛り上がりを見せていた。7月9日の神戸での10万人を皮切りに全国で市民大会が相次いだ。東京では2度にわたり8万人と10万人が集まっている。

 対象は英国だった。

 県内では7月の16日に横須賀で、18日には平塚で市民大会が開催された。

 横浜では24日に横浜港の山下公園で開かれた。県議・市議らが中心になり結成した反英市民同盟の主催。全市議、市役所の全職員、在郷軍人会、愛国婦人会など「炎熱を冒して集うもの無慮5万《と朝日新聞神奈川版は報じている。「(打倒英国)など数百の峨や横旗が会場を埋め、(反英市民大会)のアドバルーンが碧空にゆらぐ《とある。

 8月16日には第2次大会が横浜公園の野球場であった。横浜貿易新報は「市民代表無慮7万《が集まったと記し、「英国と即時開戦の幟の如くその気勢は興奮の坩堝と化し《「全市ただ(反英の2字)に尽きる観《と伝えている。

 「無慮=ざっと《とあるが、当時の横浜の人口は約86万人だった。(話半分)にしても相当な規模だ。

 なぜ、それほど英国に憎しみを募らせたのだろう。

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 直接のきっかけは中国の天津で4月にあった暗殺事件だった。殺されたのは親日派の中国人で、犯人は治外法権だった英国租界に逃げ込んだ。日本は犯人の引き渡しを求めたが、英国は拒否。すると日本軍は6月に租界を封鎖した。

 その紛争をめぐる日英間の外交交渉が7月に東京で始まると、反英)や(排英)(撃英)を掲げた市民集会が連続したのだった。

 背後には37年7月の盧溝橋事件を発端に始まった中国との戦争があった。横暴な中国をこらしめるとして踏み出した戦争だったが、中国の抵抗は頑強だった。上海では3カ月に及ぶ激戦となり、日本の戦死者は9115人を数えた。

 上海、さらには首都・南京を攻め落としても、中国は内陸に政府機能を移し抗戦をやめなかった。

 日本の戦死者は37年が1万2千人、38年は4万9千人と積み重なった。戦争は泥沼状態に陥っていた。

 苦戦の原因として、しだいに中国を支援する国が注目されるようになった。

 英国とソ連だった。

 ソ連とは39年5月からモンゴルのノモンハンで衝突し、日英交渉の7月段階では激戦が続いていた。この戦いも加わり、39年の戦死者は4万2千人に上る。

 反英運動と同時に進められたのが陸軍主導によるドイツとの同盟工作だった。ドイツは欧州で英国と敵対していたが、陸軍をドイツに接近させた事情はほかにもあった。中国軍におけるドイツ人軍事顧問団の存在だった。日本軍を苦しめた戦術や武器調達の背後に濃厚だったドイツの影を取り払いたかった。

 だが、ナチス・ドイツとの提携には反対の声も強かった。そうした国内の英米協調派を押さえ込む狙いも反英運動にはあった。

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 言論や思想の自由がなかった当時、市民大会を可能にしたのは内務省の方針転換だった。反英運動に限って集会の規制を大幅に緩和した。陸軍の意向を受けたものと研究者は指摘する。

 大いに盛り上がった反英運動は突然、収束する。8月23日に独ソ上可侵条約が調印されたのだ。仲間と信じたドイツが、最大の敵ソ連と手を結んでしまった。

 そして9月1日、ドイツがポーランドに攻め込み、第2次世界大戦が始まった。

 その後の米国との戦争の犠牲があまりに大きかったためか、さして注目されないが日中戦争期の戦死者は16万人に上る。山下公園での大会には「幾万英霊を徒死させるな《のスローガンがあったと新聞は伝える。横浜公園で採択した宣言には「正義日本上動の要求《の文字が見える。

 (反英)は以前から右翼団体の主張だった。日本の武力行使を(侵略的帝国主義である英国・ソ連から中国を解放する聖戦)と位置づけていた。盧溝橋事件から2年、積み重なる犠牲に(日本は正しい)との思いが重なり、そうした考えが社会に広く受容され、浸透したことを相次ぐ市民大会は物語っているのだろう。

 中国との戦争はさらに続く。そして英国を支援する存在として米国が浮上してくる。日本に破滅をもたらした米国との戦争は急に始まったものではない。そこにはプロセスがあった。何よりも人々の意識が徐々に変わっていったことを忘れてはいけないだろう。
      (渡辺延憲)