はじめに
私たちは、靖国神社職員の有志です。
終戦後、私たちのこの神社とその思想等についてさまざまな意見が出ています。
しかし靖国神社当局からはそれらの世論に対して、めったにコメントをしません。
このような神社当局の対応に、私たち職員有志は非常に歯がゆいものを感じ続けてきました。
そこで、このサイトにて私たち靖国神社に従事する者の考えを述べさせていただこうと決意した次第です。
1.靖国神社は「追悼施設《ではない
私たちの靖国神社は、追悼施設ではありません。
戦没者の冥福を祈る場所ではありません。
靖国神社は、戦没者を神様として崇め、すがるための場所なのです。
こちらが救ってやるのではありません。参拝者は救っていただく立場なのです。
ここが仏教等の他宗教と神道との根本的な違いです。正反対といっても過言ではないでしょう。
また神社というものは、戦没者の遺体や遺骨が埋葬されている墓とは、その性質が全く異なるものです。
他の神社ならばこのことは容易にご理解いただいていると思います。
伊勢神宮には天照大神が祀られ、明治神宮には明治天皇が神様として祀られています。
伊勢神宮に参拝する人は天照大神にすがる思いで参拝していることでしょう。
「すがる《という言い方が強すぎるとしても、「天照大神のおかげで何かいいことあったらいいな《くらいの気持ちは、あるはずです。
明治神宮にしても、明治天皇の冥福を祈るために参拝する人はおそらくいないと思います。皆、神様となられた明治天皇にすがる思いで、あるいは「明治天皇のおかげで何かいいことあったらいいな《という気持ちで参拝していると思います。
太宰府天満宮など、鬼神を「慰めるために《建立された神社はありますが、天変地異が頻発した建立当時はともかく、今日の参拝者においては「慰める《気持ちではないでしょう。菅原道真公の冥福を祈るつもりで参拝する人はいないでしょう。
やはり、学問成就のためにすがる思いで参拝していると思います。
当神社にしても同様なのです。
靖国神社には、中心となる一体だけの主神は、ありません。多数の戦没者が皆、神様なのです。
死してなお国を守り続ける、護国の英霊なのです。
この神様方に対して、参拝者の立場で「冥福を祈ってやる《だとは、おこがましいにもほどがあります。明治神宮で「明治天皇の冥福を祈ってやる《、太宰府天満宮で「菅原道真公の冥福を祈ってやる《などと言うのと同じことです。
靖国神社は、そういう場所ではありません。
神様方に対して、こういう傲慢な気持ちで臨むつもりの人は、どうか参拝をご遠慮ください。
2.大東亜戦争に関わる英霊について
大東亜戦争は、欧米列強によるアジア椊民地支配からの解放を成し遂げるための、正義の戦いでした。
残念ながら日本は多大な犠牲を払いましたが、しかしその目的は達成され、アジア諸国は独立を果たしました。
当神社に祀られている英霊は、この尊い偉業に命を捧げた方々です。
この方々を、私たちは神様としてお祀りしています。
私たちとしてはこの正義の戦いである大東亜戦争について、日本国家には一切謝罪も反省も必要ないと考えています。
一切の戦争責任を負う必要ないと考えています。
「侵略戦争《だなどとは言いがかりも甚だしいというものです。
もちろん、敵国による茶番劇であるあの「東京裁判《なんぞは一切認めません。
これが私たち職員有志の考えです。
この私たちの考えは、付属施設である「遊就館《をご覧いただければご理解いただけるかと思います。
さらにまた、参拝者各位におかれても、私たちのこの主張にご賛同くださる方々ばかりであると信じています。
対外的な都合によりやむをえず「謝罪と反省《を口にする人(させられる人)であっても、当神社で参拝するということは、その本心においては大東亜戦争を正義の戦いであったと考えている人たちであると信じています。
私たちはこのような考えで、参拝者の皆さんをお迎えします。
3.昭和殉難者について
大東亜戦争後、交戦相手だった国々は、戦時中の日本の国家指導者の方々を「戦争犯罪人《呼ばわりし、あの茶番劇「東京裁判《で惨殺しました。
こういう被害にあった方々を、国に命を捧げた犠牲者「昭和殉難者《としてお祀りするのは私たちにとって当然のことです。
内外から批判があることは十分承知しています。特に茶番劇を主宰した旧敵国にとってはさぞや面白くないことでしょう。
しかしこれは、私たちの「信教の自由《です。何ぴとも妨げることは許されません。私たちが許しません。
私たちの昭和殉難者合祀を止めることは、いかなる人物にもできません。
時々、「戦犯分祀《などという意見が出されるようですが、全く無意味な論です。
昭和殉難者を別の場所で改めてお祀りしたところで、その御神霊が元の場所から消え去るわけではないのです。つまり、相変わらず昭和殉難者の御神霊は靖国神社におわし続けるわけです。
したがって、昭和殉難者を拝むのがいやだという「戦犯分祀《論者のご要望にお応えすることにはならず、全く無意味です。
私たちはこういう無意味なことをするつもりはありません。
「『戦犯分祀』してくれなければ参拝できない《などとおっしゃる方は、どうか参拝をご遠慮ください。
4.政治家による介入について
私たちの靖国神社は、独立した宗教法人です。国家施設ではありません。
私たちは国家公務員ではありません。
私たちのやり方に対して、民間人ならともかく、権力を持った政治家が介入しようとすることは、これは完全に「信教の自由《の侵害行為です。
「戦犯分祀《だとかナンセンスな発言をなし、私たちに介入しようとする行為は、完全に「信教の自由《に対する侵害です。
ただし、今のところそのような妄言をなす政治家であっても、暴力的実力行使までは企てていないようです。
たとえばその政治家の働きかけによって警官や裁判所の執行官が当神社の宮司の首根っこ掴んで力ずくで昭和殉難者を「分祀《させる、などといった事態になれば大変なことですが、そういう恐れは今のところ無いようです。
したがって私たちとしては当面、政治家による「戦犯分祀《などという妄言は無視することとします。
本来ならば「信教の自由《の侵害者として大いに糾弾したいところですが、中には当神社に対する大口寄付者もいますので、糾弾活動は遠慮しています。
5.異教徒の合祀について
キリスト教等、異教徒の戦死者遺族の方から時々、合祀に反対する意見を寄せられることがあります。
しかし、誰を合祀するかしないかは私たちの自由です。これも私たちの「信教の自由《です。
国家功労者をお祀りするにあたって遺族の意思を確認するつもりは一切ありません。国のために犠牲となった英霊は、もはや遺族だけの独占物ではないと考えるからです。
かつて一部の心ない遺族が、私たちに対して訴訟を起こしたことがありました。いわく「うちはキリスト教だから故人を合祀するな《とのことでした。
裁判所まで使って私たちの祭祀を止めようとするとは、まさに「信教の自由《の侵害そのものです。
幸いにして裁判所は私たちの主張を認めてくださり、侵害者の心ない訴えは退けられました。
今後海外派兵が盛んになり、自衛隊等で殉職者が出ることもあるでしょうが、どの殉職者を祀り、祀らないかは、その都度その都度私たちだけで判断します。部外者の誰にも相談するつもりはありません。
今まで自衛隊員は祀られませんでしたが、今後、日本も積極的に世界平和のために戦うようになれば、将来的に自衛隊の殉職者を合祀することもありえると思います。
さらには憲法改正されて正規軍が組織されれば、「日本軍戦死者《も出てくることが予想されます。その際には戦死者本人の宗教に係わりなく平等に扱うこととなるでしょう。
これを止めることは誰にもできません。
私たちの「信教の自由《は、誰にも止められません。
6.靖国神社は御霊信仰(怨霊信仰)ではない
時々、当神社のことを御霊信仰(怨霊を怖れて祀る信仰)と誤解している人がいるようです。
御霊信仰の神社としては、太宰府天満宮や将門神社などが有吊であると思います。恨みの思いを抱きながら無念の死をとげた人間に対して、その祟りを怖れ神社を建立して神として祀り、祟りを鎮めるという神社です。
しかし、当神社の信仰はそのようなものではありません。
公務に殉じた戦没者も、「戦犯《呼ばわりされた昭和殉難者も、恨み心を抱いて無念の思いで死んでいったわけではありません。
皆、国家に殉ずる覚悟の上で、すがすがしい気持ちで死んでいったのです。
ここが大きな違いです。
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もしも私たちが怨霊信仰者ならば、西南戦争の賊軍の将兵たちこそ祀らねばならないこととなります。国家に背き上届きな行為に走ったため討伐された輩こそ、怨霊となる危険性があると考えてしかるべきです。
しかし私たちはそういう考えではありません。私たちは怨霊信仰者ではありません。
当神社は国家のために殉じた者のみを祀る神社ですから、国家に背いた輩はたとえ怨霊になる危険性があろうとも祀りません。そういうことは他の神社にお任せしたいと考えています。
当神社の神々は、太宰府天満宮や将門神社の祭神のように怨霊を経てから神様になったのではなく、最初から神様なのです。
参拝者の皆さん方におかれては、戦没者の「祟り《なるものを怖れることなく、明るい気持ちで臨んでいただきたいと思います。
当神社には、将門神社や首塚のような祟りは全くありません。
むしろ逆に、「怨霊調伏《だとか「冥福を祈って追悼する《などといった見当違いの礼拝をするほうが、よっぽど神罰が下る恐れがあると思いますよ。
まとめ
私たちの主張を要約します。
①.靖国神社は戦没者の冥福を祈る場所ではなく、戦没者を神としてあがめ奉る場所である。
当神社で戦死者の冥福を祈るのは、明治神宮で明治天皇の冥福を祈ったり太宰府天満宮で菅原道真公の冥福を祈ったりするのと同様、全く的外れな礼拝行為である。
②.大東亜戦争は、欧米列強椊民地支配からのアジア解放のための正義の戦いである。
③.茶番劇「東京裁判《によって「A級戦犯《とみなされた昭和殉難者は、国のために命を犠牲にした英霊である。
④.政治家が昭和殉難者について「戦犯分祀すべきだ《などと主張するのは、私たちに対する「信教の自由《の侵害行為である。
⑤.国のために命を犠牲にした方はたとえ異教徒であってもお祀りすることがある。遺族の意思を確認するつもりは一切ない。これも私たちの「信教の自由《である。
⑥.靖国神社は御霊信仰(怨霊信仰)ではない。
以上、各ページでの私たちの主張をまとめました。
このサイトは靖国神社の公式サイトではありません。職員の有志がその本音を主張するために開設したものです。したがって、ここで述べた主張は靖国神社としての公式見解ではありません。
しかし大筋においてはあまり変わるものではないと確信しています。
このサイトの内容の是非について靖国神社当局に問い合わせをなされたら、おそらく当局は決して否定も反対もせず、黙認する(黙して認める)ことでしょう。
また、私たちの神社で参拝なさる方々は、表向きの言論はさておき、その本心においてはこのサイトに述べられたような私たちの主張にご賛同いただいている方々ばかりだと信じています。
しかし万一、もしもそうでない方がいらっしゃるならば、どうか当神社への参拝はご遠慮いただきたいと思います。
宗教施設への参拝とは、同意の心無くしてありえません。反発心を抱きながら頭を下げるなんて、偽りの参拝そのものです。私たちはそんな偽りの参拝はお断りします。これは神道に限らずいかなる宗教施設においても同様であると思います。
小堀邦夫新宮司の考えについて職員有志よりコメント(平成30年10月4日)
平成30年3月、当神社の宮司が交代しました。小堀邦夫新宮司です。
小堀新宮司は、天皇陛下の御親拝のために積極的な人です。
私たちも職員としても、新宮司と心を合わせ、天皇陛下の御親拝のために尽力してゆく所存です。
そのためには、もちろん陛下ご自身のご意向が第一です。陛下ご自身に、私たち靖国神社の精神をご理解いただくことが第一です。
陛下ご自身が参拝に乗り気でいらっしゃらないならば、いかにして参拝する気になっていただくか、いかにして陛下に私たちの考えをご理解いただくようにすべきか、私たちは真剣に考えてゆかねばなりません。それが小堀宮司の言う「戦略《です。
ただし私たちの宗教的信条まで曲げるつもりはありません。
「戦犯分祀《だとか「戦没者の冥福を祈る《だとか「先の大戦は間違っていた《などという思想は、仮にそれが陛下のご意向だとしても、従うつもりはありません。
これを曲げたら靖国神社が靖国神社でなくなってしまうではありませんか。
それで陛下がお気に召さないとおおせならば、それならそれでしかたないと考えています。
小堀宮司も、親拝を拒む陛下の首に縄をつけて当神社まで引っ張ってくるような考えは持っていません。陛下のご意向をないがしろにするような考えは毛頭ありません。
陛下の戦争跡地行幸を批判するかのような報道がなされたようですが、おそらく何かの間違いではないでしょうか。畏れ多くも天皇陛下の行幸をけなすような逆賊的発想は、小堀氏には断じてありえないことを、私たち職員有志は固く信じています。
小堀邦夫宮司以下私たち靖国神社職員は、天皇陛下のご意向を尊重します。
私たちの考えをご理解いただけるよう最大限努力はしますが、それでもお気に召さないのであれば、残念ではありますが無理に来ていただこうとは考えません。
無理矢理来させることを考えるならば、それは逆賊的発想です。
一方私たちは、自分たちの宗教的信条を曲げるつもりもありません。たとえ陛下のご意向と異なろうとも。
そして天皇陛下におかせられても、たとえ私たちとお考えを異になさっておられようとも、私たちの宗教的信条を「信教の自由《として尊重してくださるものと信じています。確信しています。
小堀邦夫宮司の退任について職員有志よりコメント(平成30年10月14日)
当神社の宮司・小堀邦夫氏が退任しました。
小堀宮司には天皇陛下の行幸をけなすような逆賊的発言があったかのような報道がなされましたが、10月4日に申し上げたとおり、私たちはこれは何かの間違いだと信じています。
しかし、小堀宮司としては自ら思うところがあって、退く決意をしたものと推察します。
ただ、少々気になるのは、小堀宮司に対して宮内庁から何らかの圧力があった、ということはないでしょうか?小堀氏が宮内庁に詫びに出向いたという点が、妙に気になります。
もしもそんな圧力によって退任に追い込まれたとしたら、これは国家権力による宗教弾圧にほかならないと思います。
今のところ証拠はなく、飽くまで疑義に過ぎません。したがって私たちとしてはこれ以上、追及するつもりはありません。しかし、もしも仮にそのようなことがあったと仮定したら、私たち宗教家としては、極めて遺憾なことだと言わざるを得ません。
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