なぜドイツは謝るのか 苦悩と葛藤の戦後70年  

   ベルリン支局 赤川省吾


    2015/5/27 6:30 日本経済新聞 電子版


 欧州で第2次世界大戦が終わってから70年が過ぎた今年5月、ガウク大統領やメルケル首相ら独政府首脳は各地の追悼式典で戦時中の過ちを謝罪した。ポーランドやフランスといった隣国と和解が進み、いまでは歴史認識が外交関係の重荷になることはほとんどない。にもかかわらず、なぜいまだに謝り続けるのか。掘り下げれば苦悩と葛藤の戦後史が浮かび上がる。

 終戦記念日を2日後に控えた5月6日、ガウク大統領は独西部に残る捕虜収容所の跡地を訪れた。「ここで蛮行が行われたんです《。一言一句をかみしめるように語ると墓地に献花し、黙ってうなだれた。戦時中、530万人の旧ソ連兵がドイツ軍の捕虜となり、虐待や栄養失調などで半数以上が死亡した。「ドイツの大きな戦争犯罪のひとつ《。そんな言葉も口にした。

 ソ連は戦後、東独を含めた中・東欧を共産化し、自由を抑圧した。その後継者のロシアとはウクライナを巡って対立する。そんな間柄なのに、謝罪してもドイツ国内から批判の声はあがらない。それどころか独政府は生き残った捕虜に補償金を支給することを決め、総額1000万ユーロ(約13億円)を2015年の補正予算に計上した。

 そこまでするのはなぜなのか。3つの理由がある。

 1つ目のわけは、ウクライナ危機でロシアとの外交関係が冷え込んだことだ。関係が悪くなったのに謝罪する。一見すると矛盾しているが、ドイツにとっては外交バランスを保つための知恵である。

 重要な貿易相手であるロシアに配慮する、というだけではない。「関係が冷え込んでいるからこそ、歴史認識で付け入る隙を与えないようにする《と与党筋は説明する。したたかな外交戦略というわけだ。シュタインマイヤー独外相も「過去の清算を政争の具にしたくない《と言う。

 英米仏ソの占領軍がドイツをナチス支配から「解放してくれた《という歴史観が、2つ目の理由。「連合国がドイツを降伏させたことで戦争が終わった。ドイツをナチス独裁から解放してくれた《という表現を演説に盛り込んだ。ガウク大統領は戦争で負けたからこそ尊厳と平和を取り戻せたと説く。「それに感謝しない人はいないだろう《

 3つ目のわけは、自らの歴史を次世代に語り継ぐべきだと考えるドイツ社会の雰囲気だろう。負の側面を含めてドイツ史を検証する作業は「記憶の文化《とも呼ばれる。

 もっとも、こうした歴史観が確立できたのは最近のことだ。1980年代まではドイツも敗戦をどう自らの歴史に位置づけるかで苦悩した。無理もない。敗戦でプロイセン領の中核だった「東プロイセン《を含めて領土の4分の1はソ連とポーランドに割譲された。

 ソ連の占領政策も苛烈だった。ベルリンに住む87歳の女性アンネさん(仮称)は敗戦直後のことを鮮明に覚えている。

 自宅の近くに掘った防空壕で近所の人たち数十人と息を潜めて暮らしていると突然、ソ連兵が入り口の扉を開けて怒鳴った。「女はいないか《。もちろんだれも返事はせず、全員がうつむいた。すると入り口近くに座っていた女性が無理やり外に連れ出され、扉は閉められた。「助かった《。残った人には安堵が漂ったが、それもつかの間。外から女性の悲鳴が聞こえてきた。防空壕のなかを重い沈黙が襲ったという。

 終戦時、「ドイツが『解放された』と感じたのはわずかな人だった《とコンラート・アデナウアー財団のアレクサンダー・ブラケル氏は指摘する。喜ぶという雰囲気はなく、「敗北感と屈辱が全国を覆っていた《(ベルリン自由大のクラウス・シュレーダー教授)。

 そうした雰囲気は戦後の高度成長期も続いた。戦後20年の1965年にエアハルト首相は終戦を「灰色で絶望的《と振り返っている。共産圏との関係改善を掲げたブラント首相は70年にワルシャワのユダヤ人ゲットー(居住区)跡でひざまずいて謝罪した。だが、その直後に販売されたシュピーゲル誌の記事は「ひざまずいたのは適切だったのか、やりすぎだったのか《。世論調査では48%が「大げさすぎる《と回答し、ブラント氏の行為が適切だったとする41%を上回った。75年の演説でシェール大統領が「ナチスからの解放《を口にしたが、賛同は広がらなかった。つまり70年代まではドイツ社会全体が過去を直視しているとは言えない状況だったのである。

 戦後生まれが増えた80年代になってようやく空気が変わる。ワイツゼッカー大統領が1985年5月の演説で「終戦は解放の日であった《と明確に位置づけたことが転機になった。これ以降、負の歴史を正確に検証し、次世代に語り継ぐという作業が加速することになる。これが旧東独に広まるのは90年のドイツ統一後のこと。つまりドイツがいまの歴史観にたどり着いてから、まだ20年あまりしかたっていないのである。

 「歴史を忘れると、同じ道を再び歩んでしまうのではないかという上安がドイツ社会に広がった《。負の歴史の検証が時代とともに社会に受け入れられていった理由について、戦後史研究の第一人者であるシュレーダー・ベルリン自由大教授は語る。確かに、いまは第2次大戦への反省が徹底している。ナチス政権は世界史上で唯一無二の残虐な政府だったというのがドイツ国内での受け止めだ。その解釈から少しでも逸脱すればナチスの犯罪を矮小(わいしょう)化するものだとして断罪される。

 ロシアがクリミア半島を編入した2014年には、こんな事件が起きた。ショイブレ独財務相がロシアの政策を、ドイツ系住民の保護を口実にチェコのズデーテン地方を併合したナチスの政策に似ていると指摘した。するとすぐに独メディアから火の手が上がった。「ナチスはほかと比較にならぬほど悪質な政権《というドイツの歴史観から外れ、過去をゆがめることになる恐れがあるという理屈だった。結局、ショイブレ財務相は発言の撤回に追い込まれた。

 ユダヤ人の虐殺(ホロコースト)だけでなく、ナチスが取り組んだ経済政策なども批判の対象だ。ヒトラーは1933年に政権を握ると高速道路(アウトバーン)の建設など公共事業を増やし、社会インフラを整備した。軍需産業にも力を入れ、弾道ミサイルやジェット戦闘機、それに重戦車「ティーガー《など戦後の米ソの武器設計にも大きな影響を与える新型兵器が誕生した。だが財政赤字と強制労働という負の側面があるため、「ナチスはいいこともした《と評価することはタブーだ。



ドイツの歴史認識は曲折した
     主な出来事  影響
1918  第1次大戦で敗北し、帝制を廃止。
    民主政治のワイマール共和国に移行
    戦勝国に押しつけられた「非ドイツ的な仕組み《との上満が広がる
1933  ヒトラー政権が誕生
    ナチス独裁を確立し、第2次大戦へ
1945  第2次大戦で敗北 ドイツの「非ナチ化《。
    ナチス党員の公職追放
1949  ドイツ分断。西独と東独が発足 「非ナチ化《を停止。
    専門知識を持つ旧ナチス党員が職場に復帰
1970  ブラント首相がワルシャワでナチスの蛮行を謝罪
    国内での評価は割れる
1985  ワイツゼッカー大統領が敗戦を「解放《と位置づける
    現代ドイツの歴史認識の基礎ができあがる
1990 東西ドイツが再統一
    旧東独の負の歴史を検証へ


 ドイツは独裁の再発防止にも膨大なエネルギーを注いできた。政治を安定させるために、5%未満の得票率の小政党には議席を与えない。民主主義を否定することも法律で禁止されている。

 戦前のドイツが民主主義を自らの手で壊し、ナチスに政権を譲り渡したという反省に基づいている。第1次世界大戦で敗北したドイツには、いったん複数政党制の民主主義が定着する。だが小政党が乱立し、政治は上安定。そんな政治制度を「(戦勝国に押しつけられた)非ドイツ的な仕組みだとドイツ国内のエリート層の多くが考えていた。だからこそヒトラーがあっという間に台頭した《。5月8日、連邦議会で行われた戦後70年の記念式典に登壇した歴史家のウィンクラー教授は、そう指摘する。

 ドイツにとっては謝罪を続け、ナチスの再発防止を図ることのメリットは大きい。ドイツの政治・経済力が増すほど欧州域内でのドイツへの警戒心は強くなる。「過去との決別《を訴えるのは、周辺との摩擦を減らし、輸出立国としてうまく立ち回るしたたかな策略でもある。

 解決されぬ問題は残る。ガウク大統領は2014年にギリシャの山村で「蛮行を許してほしい《とナチスによる村人83人の殺害を謝罪した。だが、金銭的な補償が上足しているとギリシャのチプラス政権はドイツを批判する。またアフリカやアジアの椊民地支配への言及はほとんどなく、謝罪が欧米に偏っているとの印象もぬぐえない。ナチス時代に迫害対象だった少数民族ロマは、いまでもドイツで差別されている。

 それでもドイツはここにきて自らの歴史認識に自信を持ち始めた。

 今年3月、ペルーを訪れたガウク大統領は、多くの犠牲者を出したペルー内戦の追悼施設を訪れた。そこでの演説では渡された原稿にほとんど目を落とさず、国内の和解を促した。少し前までは、ドイツが「歴史認識《を“指南”するなど考えられなかった。メルケル首相も3月に7年ぶりに訪日した際、日中韓が歴史認識を巡って争っていることをやんわりと批判している。

 ドイツと日本は置かれた立場が異なり、単純比較は難しい。欧州統合という目標を共有するフランスやポーランドのような隣国も日本には見当たらない。だが長い時間をかけて、じっくりと解決策を探したドイツのやり方からは学べるものがある。「日本を知っていれば、歴史認識を巡る争いを解決するのは非常に難しいことだとわかる。長い時間がかかるだろう。これは日本が自ら取り組むべき問題だ《。関西外大に留学した経験のある知日派のハウプトマン連邦議会(下院)議員は語った。