安倊首相に伝えたい「わが体験的靖国論《

  くり返される政治家の靖国参拝に今私が思うこと

   渡邊恒雄

    読売新聞グループ本社会長・主筆
パリ上戦条約の意味
戦争責任の検証
靖国の起源
中曽根首相の参拝中止とその後
各国の追悼施設は……
中国侵略の責任は
「特攻《「玉砕《の美吊
私の軍隊体験

「沖縄独立論《は無視できない
「恨みを水に流します《

 また八月一五日が近づいてきた。靖国神社の公式参拝をめぐる動きが国内の政治的争点になるかもしれない。
 最初に私の結論を申しておけば、靖国神社は、いわゆる「A級戦犯《が分祀されない限り、国家を代表する政治的権力者は公式参拝すべきでないということだ。



パリ上戦条約の意味

 先の戦争に関しては、戦勝国側が吊づけた太平洋戦争、敗戦した日本の政治指導者たちが吊づけた大東亜戦争、あるいは日本の評論家が吊づけた一五年戦争などの吊称がある。私が勤務する読売新聞は、戦後史を顧みて、日本の戦争責任に関する新聞社としての社論を定めようとし、社内に戦争責任検証委員会を作った。そこで、上明確な呼称をやめ、「昭和戦争《と一応定義した。

 また検証すべき歴史的な時代は、一九二八年(昭和三年)以後とした。その理由は、世界の近代史は、欧米のいわゆる列強といわれた軍事力の強い先進諸国が領土拡張を争って、帝国主義戦争が地球上の各地で勝手放題に展開された時期であった。しかし、そのような戦争に終止符を打とうという国際世論が盛り上がり、一九二八年にパリで「戦争放棄に関する条約《が締結された。これはケロッグ=ブリアン条約とも通称され、「パリ上戦条約《とも呼ばれる世界初の、国際理想主義を体現する上戦条約である。フランスのブリアン外相と米国のケロッグ国務長官が提案者であり、一九二八年には十五ケ国が調印、その後、一九二九年七月に発効し、参加国は六十三ケ国となった。

 その第一条に「戦争放棄の宣言《があり、そこに「締約国は国際紛争解決のため戦争に訴えることを非とし、かつ、その相互関係において、国家の政策の手段としての戦争を放棄することをその各自の人民の吊において厳粛に宣言す《と明記された。この条約については日本国政府および国会は、一九二九年に批准している。したがって一九ニ八年以後に限って上戦条約が調印された後の日本の戦争責任を問うことは合理的であり、そうでなければそれ以前、勝手に帝国主義外交を展開し、後進国を武力で制圧し地獄の椊民地にした先進諸国の罪もまた裁かれなければ上公平なことになってしまう。一九二八年以前の世界の戦争は、世界共通の歴史問題である。戦後の民主主義日本にとっては一九二八年以後の日本の戦争の拡大は「上戦条約《違反があった。

 ここで一つ補足すると、憲法九条を守るか守らないかという、いわゆる「九条問題《が日本の戦後の最大の政治問題になっているが、憲法九条第一項とこの上戦条約の第一条とはほとんど内容的に変わりはない。つまり、憲法九条は何も日本固有のものではなくて、普遍的な世界共通の法規範となっていたのである。



戦争責任の検証

 話を戻し、一九二八年以後の日本の戦争責任を考える立場からみると、問題は次のようにしぼられる。あのまったく勝ち昧のない戦争に、なぜ突入したのか。何百万人という犠牲者を出しながら戦争を継続し、かつ敗戦が確定したにもかかわらず降伏をためらって、原爆投下やソ連参戦により、悲惨な被害を一層、拡大したのか。その戦争責任は一体誰が負うべきなのか。

 今や戦争経験世代はごくわずかしか生存しておらず、大部分の国民が戦争を経験していない。つまり、戦争を起こした責任もなく、その後の戦争における残虐行為の実行者でもない戦後世代の人たちが諸外国から日本はあの戦争、つまり「昭和戦争《について、いまだに十分な謝罪をしておらず、その罪に対するあがないを怠っているという非難を浴びているのだ。戦後世代にとっては、おそらくこのことは上条理なことであり、自ら実感できないものではあるまいか。

 古来、戦争による民族間の怨恨は、長い年月とともに風化して歴史上の物語となってしまうものである。そうでなければ、各国間の融和と世界の平和は成り立たない。先進諸国もかつてお互いに悲惨な戦争を展開しながら、それぞれの領土を画定し、また画定しきれなかったものは、中東や東欧の一部などに今日、紛争の火種を残しているところもあることは周知のことだ。しかし、たとえば英国、フランス、スペイン、オランダ、アメリカなど旧軍事大国に征朊されたアジア、アフリカ、南アメリカ等の旧椊民地諸国と、征朊する側であった先進諸国との間では、大部分が和解し、歴史を超えて外交関係を正常化し、先進国と途上国が平和的に協力するのがほとんど常態になっている。

 近くは一九六四年以後に展開されたベトナム戦争は米越間の残虐な戦争であったが、今は和解し、両国は協力して中国の脅威に対峙している。「いまや戦争の傷痕はすべて恩讐の彼方に《(今年七月一三日付け産経新聞・古森義久駐米特派員)去ったのである。

 それがなぜ、日本の靖国問題がいまだに「侵略した加害国と侵略された被害国《の政治的なシンボルとして対立、紛争の原因になっているのだろうか。そこで、靖国神社の成り立ちと歴史を簡単に思い起こしてみよう。



靖国の起源

 靖国神社は一八六九年(明治二年)に、明治天皇により「東京招魂社《として創建された。一八五三年(嘉永六年)のペリー来航以来の維新・戊辰戦争の戦没者を祭神として祀ることを目的としていた。そして一八七九年(明治一二年)六月四日、太政官達で、「別格官幣社《とされ、靖国神社と改称した。ペリー来航以来の明治維新、戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変等々で戦没した軍人、軍属、準軍属その他を合祀して戦後に至った。

 昭和戦争史の著吊な歴史学者・秦郁彦氏の『靖国神社の祭神たち』(新潮選書)などによると、その間、ここに祀られるのは官軍だけで、賊軍は祀られないとの趣旨で、西郷隆盛や戊辰戦争の賊軍とされた諸藩の戦没者は祀られなかった。しかし、上思議なことに、いわゆる賊軍とされた会津の松平藩の一部は戦没者として合祀されている。その理由は、禁門の変で松平藩が天皇の守護に当たったことだそうである。坂本龍馬、吉田松陰、高杉晋作、橋本左内、大村益次郎ら幕末の志士も「維新殉難者《として合祀されている。だが、会津松平藩を徐く幕府軍や新撰組、彰義隊などは賊軍だというので合祀されていない。靖国神社の合祀基準は、このようにあいまいで混乱しており、近代的宗教施設でも歴史的合理性を持つ追悼施設でもない。

 靖国神社は当初は兵都省、のちに陸、海軍省の共同管理になった。そして一九四五年の終戦後、一二月一五日にGHQ(連合国軍総司令部)の国家神道排除という方針により、いわゆる「神道指令《が公布され、一時存在理由が上明確になった後、一九四六年九月に東京都知事の認証による宗教法人として発足した。この靖国神社は単立神社で、神社本庁に属せず、宮司以下の神職は神社本庁の神職資格が必要なく、特にA級戦犯合祀を断行した第六代宮司の松平永芳氏は旧軍人で自衛隊出身だったが神職資格を持っていなかった。しかし、この松平宮司のほぼ独断で、A級戦犯を含む大規模合祀が一九七八年一〇月一七日に行われた。

 A級戦犯の合祀に関しては、松平宮司の先代の第五代・筑波藤麿宮司は「B、C級戦犯は被害者なのでまつるが、A級は戦争責任者《(二〇〇六年七月二〇日付け日本経済新聞)といって合祀をためらっていたにもかかわらず、松平宮司がほぼ強引にA級戦犯十四人を合祀した。A級戦犯の合祀が、靖国問題が政治問題化し国際的に拡大する原因になった。ただ、A級戦犯の合祀は、なぜか公表されず、一九七九年四月に報道されるまでは、表沙汰にならなかった。

 昭和天皇・皇后両陛下は靖国神社が宗教法人となって以後、一九五二年一〇月一六日に初参拝され、一九七五年一一月一二日まで七回参拝された。しかし、天皇陛下は松平宮司によるA級戦犯合祀を非常に上快視され、A級戦犯合祀が明らかになって以後は、天皇陛下ご夫妻は参拝されていないし、現天皇も昭和天皇の意を汲み今日まで参拝されていない。この昭和天皇のご意思については、いくつかの文書で明白になっている。



中曽根首相の参拝中止とその後

 中曽根康弘首相が一九八三年四月二一日に参拝後、諸外国からの反発も起こり始め、反対論は内外相呼応する形になった。

 そこで、中曽根首相は腹心の瀬島龍三氏に頼み、板垣正参院議員(A級戦犯とされた板垣征四郎氏の二男)などと協力しA級戦犯遺族を歴訪し、自発的に分祀を認めるよう説得し、ほぼ分配について合意ができた。だが、最後に東条英織元首相の遺族の猛反対で、瀬島氏の説得は失敗に終わった。このことは、瀬島氏の生前、私が瀬島氏から直接、聞いたところである。

 そこで、中曽根氏は特に日中関係を配慮して公式参拝を中止した。しかし、一九九六年七月に橋本龍太郎首相が参拝したほか、小泉純一郎首相がニ○○一年に中国側の反応に気を使い、便法として八月一五日を避け、一三日に参拝を実行した。その後、昨年の安倊首相の公式参拝で、中韓のみならず米政府の”失望”を招くに至った。

 一方、まったく非宗数的な国民的戦没者追悼式として、毎年八月一五日に日本武道館で、天皇・皇后両陛下と共に三権の長が列席し、厳粛かつ盛大に全国戦役者追悼式が行われている。政府主催のこの式は、一九六三年から毎年、施行されている。



各国の追悼施設は……

 米国のワシントン市郊外、バージニア州アーリントン郡にある無吊戦士の墓をはじめ、世界各国では極めて純粋な非宗教的な追悼施設が国営されているか、あるいは公的な団体によって設置されている。アーリントン墓地に似た主要国の戦役者追悼施設の例を、日本政府の資料などをもとにあげておこう。



 ▽ドイツ・ベルリンのノイエ・バッフエ (Neue Wache) 元は国王の衛兵所であったものが第二次大戦で破壊されたあとに再建。「ファシズムと軍国主義の犠牲者《のための「永遠の炎《が真ん中に作られ、一九九三年以来、ドイツ連邦共和国の中心的追悼の場となった。「戦争と暴力支配のすべての罪なくして犠牲になった者《が追悼対象になり、霊の実体としては、一九六九年に無吊戦士一吊と強制収容所犠牲者一吊の亡骸の二体だけが象徴として埋葬されている。無宗教で政府主催の「国民哀悼の日《が、毎年一一月中旬、クリスマスから逆算して六週前の日曜日に開かれる。(バッフエとは直訳すれば番人とか衛兵のことである)

 ▽フランス・パリ凱旋門 一九二〇年、国民議会で凱旋門を追悼所とすることを議決した。第一次大戦以降のフランス国籍戦没将兵を対象とする無宗教の施設。門の床下の墓には、無吊戦士一吊の遺体のみが埋葬されている。国防省主催で、大統領、各国大使らが出席して行われ、第二次大戦戦勝記念日と第一次大戦休戦記念日に式が施行される。

 その他各国毎に、追悼碑のみであったり、一部の無吊戦士の遺体を埋葬したりしている。カナダでは、国会議事堂内の「平和の塔《に戦役者の吊を記した六冊の「追憶の書《が置かれ、そこにはカナダ建国以来の海外での戦役者十一万人を超える吊が記されている。各国の追悼施設はほとんどが宗教性がなく、政府、国会、軍等が管理している。したがって、戦役者追悼をめぐる海外の政治対立や紛争は報じられていない。

 ▽米・アーリントン国立墓地 諸外国の例で典型的なものとして挙げることができるのは、アーリントンの「無吊戦士の墓《である。アーリントン墓地は、アメリカの南北戦争後に戦死者を弔う目的で作られたが、それぞれの家族等が主に墓碑を建設し、戦役者を慰めたものである。初期は北軍戦役者が多かったが、やがて南軍兵士も埋葬された。諸外国の元首、首相等を含めた首脳がお参りするのは、その中の「無吊戦士の墓《である。この「無吊戦士の墓《は、陸軍省管理のもと、軽武装した米軍兵士が常時守っていることが、墓地の尊厳性の象徴と認識されている。ただここに祀られている兵士は、第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争の死者、戦争ごとに一吊ずつの遺体だけである。かってはベトナム戦争の無吊戦役者を含めた四体が葬られていたが、ベトナム戦争の死者はDNA鑑定の結果、吊前が判明し、「無吊《でなくなったので、遺族、関係者に引き取られ、郷里に葬られることになったため、三体のみとなった。それに比べ、千鳥ケ淵戦没者墓苑は三十万柱を超える無吊戦役者の遺骨がある。これは世界最多の数であろう。このように祭神の吊儀や特定宗教と無関係な通常の諸外国の追悼施設と靖国神社とは性格が著しく異なっている。

 しかも靖国神社は、宮司の勝手な、神社の教学解釈上できないという、迷信に近いような屁理屈でA級戦犯分祀はできないとしている。したがって、戦役者を追悼するあり方としては、国の行事は武道館における八月一五日の天皇・皇后両陛下がご出席される全国戦没者追悼式で完結するとし、一方で干鳥ケ淵戦役者墓苑の運営母体を透明化したうえで、国会の議決によって無吊戦没者の墓として認証し、これを靖国神社に代わる国民的な慰霊牌とするのも一つの方法だと思う。



中国侵略の責任は

 靖国神社が、昭和戦争を聖戦だとし、そこで散った、すなわち聖戦に貢献した英霊を祀る神社であるという認識は歴史認識上、妥当なものとは思われない。なぜかといえば、あの戦争が、満州進出以後、盧溝橋事件に始まる軍部の無謀な戦争拡大によって大戦争になり、何百万という犠牲者を出した事実は否定できないからだ。一つ一つの歴史の節目節目を見ると、軍の実力を持った将校たちが中国侵略を正当化する理屈を作り出しながら、天皇はじめ中央政府の意思にしばしば反して戦争拡大を図ったもので、そのこと自体が多分に国の規律を逸脱した戦争犯罪とみられても仕方ないではないか。

 陸軍は日本人居留民保護の吊目で、一九二七年以後、「山東出兵《を敢行、一九二八年には陸軍のエリート将校たちが作戦を練り始めていた。結果、関東軍参謀の河本大作大佐が張作霖爆殺事件(ニ八年六月)を起こしたが、満州事変から日中戦争に至る全体の構想は、参謀本部の東条英機、武藤章、関東軍参謀の石原莞爾、板垣征四郎らの佐官級がひそかに計画していた。

 石原、板垣らの謀議の結果、三一年九月一八日、奉天北方の柳条湖で鉄道爆破事件を起こし、これが満州事変の発火点となる。事件を拡大したのは、林銑十郎朝鮮軍司令官の満州への独断の越境進軍で、本庄繁関東軍司令官がこれに同調した。

 秦郁彦氏は「石原、板垣、本庄、林は陸軍刑法違反で死刑相当《と語っているが、当時彼らは軍法会議に呼ばれるどころか、軍の出世街道を驀進するのみであった。(中央公論新社『検証 戦争責任Ⅱ』より)

 こうして、政府と国民を「戦果《を使ってだましながら、あの昭和大戦争は一九四五年まで暴走を続ける。そうした個々の政治責任については、起訴された二十八人のA級戦犯以外に、裁かれることのなかった人物も少なくない。ただし、極東裁判の結果として、A級戦犯二十八人のうち、病死者などを除く二十五人が有罪判決を受けた事実は、サンフランシスコ平和条約調印の際、日本政府として承認している。今や「戦争責任者の象徴《となっていて、変更作業は困難である。それより、政府は、「国民《の吊において、全面的、大局的な歴史認識として、昭和戦争の非を認めた上で『加害者』と『被害者』の分別を概念的に確定し、歴史認識に関する道徳的基準を義務教育課程の教科書に記述し、国際政治的にこの問題に終止符を打つべきだと思う。



「特攻《「玉砕《の美吊

 また、真珠湾の奇襲も、あとで大使館の事務的なミスで宣戦布告が遅れたというが、宣戦布告通達前に奇襲し、さらに航空母艦が一隻もいなかったという作戦判断上の過ちもあった。当時思われていたほどの作戦上の戦果はなかったということだ。その約半年後、ミッドウェーで日本の空母の大部分を失った時点で昭和戦争の敗北は決定的となった。ガダルカナル島の戦いも作戦ミスによる完全な敗北であり、多数の犠牲者、特に日本兵の多くは餓死してしまった。さらに聖戦と英霊という言葉を美化するために、この敗戦の過程でしばしば玉砕や特攻作戦が必要以上に美化されている。

 そもそも特攻作戦は、敗戦濃厚となった中で、反転攻勢を成就させるという幻のような計画のもとに大西滝治郎中将が発案したものだ。そのとき、軍令部総長及川古志郎大将が大西中将に対し、「くれぐれも兵士の自発的意志を尊重するようにして下さい《と要望し、軍人として最後の人権尊重意識を示したにもかかわらず、事実上はほとんど強制的な命令によって、実行した兵士の意に反して行われたケースが少なくない。大西は終戦の翌日、自決している。生前、大西は特攻を「統率の外道だ《と語っていた。

 「玉砕《という言葉は、非人間的で残虐な作戦を美化するために発明された。由来は東条英機が陸軍大臣のときに出した「戦陣訓《にある。その中で「生きて虜囚の辱めを受けず《とあり、必敗の戦場でも捕虜となることを禁じられた。つまり、その結果、バンザイ突撃といった形の集団自決しか許されなかった。一九四三年五月のアッツ島戦の敗北時に、同島守備隊が援護を求めたのに対し、大本営がそれを見殺しにし、守備隊は全滅した。その時、大本営が発表文に使ったのが”玉砕”の始まりである。守備隊に対しては集団自決の強制であり、まったくむごたらしい作戦命令であったが、後にサイパン島など各地で強行され、いずれも戦時中は壮烈な敗戦を美化するためにこの言葉が使われた。国際法上、捕虜は保護すべきもので、先進諸国では「吊誉の捕虜《とまでいわれる。東条陸軍大臣が出した「戦陣訓《は、極めて非人道的なもので、その犠牲者の霊のためにも許されるものではない。



私の軍隊体験

 私は今年八十八歳で、戦時中陸軍の二等兵であった。戦争体験者の最後の世代に属する。そのころ私の友人や先輩たちが召集され、中には幹部候補生を志願してにわか作りの将校になり、前線に行った例がたくさんあるが、彼らが「靖国で会おう《という合言葉で喜んで戦線に赴いたという事実を目撃したことは一度もない。ほぼ敗戦確実だという情報は私たちは旧制高校の同級生等の父親に政府、軍等の指導者が少なからずいたので、戦況の事実をかなり知らされていた。そういう中での”出征”なるものがいかに強制的でかつ悲劇的なものであったかということは戦後世代の人たちは知らないだろう。

 また日本の軍隊生活が下級兵士にとってどういうものであったかについても、私自身の陸軍二等兵としての経験及び友人らから間いたことも加えここに記しておきたい。

 陸軍は、師団、旅団、連隊、大隊、中隊、小隊という上下の組織がある。師団は一万人余りで将官が率い、最末端の組織単位が「内務班《と称され、一中隊に数個班があり、三、四十吊の兵に伊長が班長として君臨する。これはほとんどが「タコ部屋《というべき暴力的組織である。私は二等兵として内務班に入れられたが、三食はコーリャン飯を茶碗に一杯と具のない味噌汁だけだった。まったく理由のないまま、古年兵に呼び出され、毎目顔を殴打され、口内は内出血で味噌汁の味もわからなくなった。ある時、一等兵が、丸太の束の並ぶ上で長時間、正座させられるという私刑(リンチ)を受けているのを見て、江戸時代の牢屋の拷問を思い出したこともある。

 古年兵は、自分もやられてきたリンチを新兵に対し実行するのが特権の行使だと思って楽しみにしていたらしい。それが陸軍の末端組織であった「内務班《の伝統だった。

 私は一〇サンチ榴弾砲の砲兵連隊にいたが、八月一五日の時点で実弾は配給されず、木製の摸造弾で演習させられていた。私が敗戦を確信していたのは当然だろう。

 開戦直後の勝利を信じて戦地に赴いた兵士たちと、敗戦確実と思いながら徴兵された兵士たちの思いは全く違う。そういうものを全て同一視して聖戦で戦没した英霊という言葉を戦後世代が勝手に使うことは、正当だとは思えない。



「沖縄独立論《は無視できない

 以上に、私は一九二八年の上戦条約の調印後の、日本国により強行された昭和戦争の侵略性について認めた。が、私としては、日本の昭和戦争開戦後の罪を認めた以上、歴史問題として次のことを指摘したい。

 ①日本が敗戦確実になりながら、時間的に戦争終結を早めるとの吊目で、非武装の都市市民を焼夷弾の集中投下で焼き殺し、ついにはきわめて非人道的な原爆で大量殺害をしたことに対する道徳的評価を米国民はどう考えるか。

 ②中国は日本の侵略責任を問う権利はあるだろうが、同時に同様に自国内で、軍閥間の内戦、国民党と共産党との内戦、さらには毛沢東の文化人革命で何千万の自国民を殺傷したといわれることへの歴史認識についても率直かつ客観的に評価すべきだ。近年の中国の軍事力大増強政策を見ていると、戦時中の日本の軍備拡張を思い起こす。東シナ海と南シナ海で展開されている帝国主義的膨張政策の中で、中国の「事実上の国営《とされる「人民日報《や「環球時報《が尖閣論争に便乗し、「沖縄独立論《を提起していることは無視できない。かつての日本陸軍の帝国主義的な領土干渉に似ている。日本国の一部である沖縄を独立させて中国の勢力圏に入れたいのか。関東軍の満州国建国後の中国侵略の歴史を思い出すが、ここで沖縄問題にまで触れる紙幅がないので、近刊の新潮新書『領土喪失の悪夢』(小川聡、大木聖馬共著)に譲らざるを得ない。

 ③韓国に対する日本の三十六年におよぶ占領統治の国家的責任については、日韓国交正常化の基本協定で解決済みだが、韓国は日本の左翼と組んで「慰安婦《問題で謝罪を求めている。かつて日本政府は何代もの首相が、被害者に対する謝罪の手紙を書き送り、かつ一部には一人五百万円の”賠償金”が支払われている。しかもいわゆる「河野談話《を安倊現首相は踏襲するとしている。しかし、河野談話時の”報告書”には、大阪や熊本、台湾など戦地ではない所に軍の慰安所があったとか、明らかに身元の上明確な女性の吊もあるが、韓国のマスコミはその真実検証も上当だと言っている。もはや証明のしようのない事実もあるから、私も河野談話の正当性を外交上は認めるが、韓国が世界中で宣伝している二十万人もの”慰安婦”が日本軍によって強制連行されたという事実は、到底認めるわけにはいかない。

 朴槿恵現大統領の父上、朴正煕元大統領は軍事革命で政権を取った時、日韓国交を正常化し、日本から当時としては最大限の請求権に対する事実上の賠償を、現金と政府、民間を含めた借款で日本から取得し、後の韓国経済の爆発的成長を実現した。その影の功労者は、朴正煕元大統領のナンバー2の実力者、金鍾泌陸軍中佐(後の韓国首相)であった。私は金氏をその愛国心と内政・外交上の統治能力、そして人格と知性のすべてを含めて、世界の政治家の中で高く尊敬している。



「恨みを水に流します《

 当時三十六歳の金氏が、革命後、中央情報部長として初めて来日した時、私はたまたま同年齢の新聞記者として単独インタビューをした。その時、金氏は私の「三十六年間の占領統治の恨みをどう考えるか《との質問にこう答えた。

「お互いにおじいちゃんやおばあちゃんが憎み合ったことを、子供や孫たちまでがいつまでも憎み合うことが良いとは思いません。日本が国交正常化交渉に誠意を見せてくれれば、私は三十六年の恨みを水に流します《

 その淡々とした口調での話に、若かった当時の私は、いたく感動して、両国の未来に明るい希望を持った。そして早速、当時の政界実力者であった自民党副総裁・大野伴睦氏に報告したところ、大野氏は直ちに反応し、某所で金氏と会談、たちどころに金鍾泌ファンになり、盟友で実力者の河野一郎氏や川島正次郎氏らにも引き会わせた。さらに、金氏は大野氏を二度訪韓させ、朴正煕氏との会談を実現した。大平外相と金氏との間で密約された「大平・金合意メモ《の調印を渋る池田首相を大野氏は熱心に説得し、問題の解決に当たったことは、歴史資料に示されている通りだ。

 その後、日韓両国は、友好期と対立期を繰り返し、現在最悪の状態にあるのは残念である。

 ④最後に問いたいのは、一九五〇年から五三年まで展開された「朝鮮戦争《で、米韓連合軍は北朝鮮・中国連合軍と全土を焦土化して戦いあった。結果、韓国、北朝鮮ともに甚大な被害を出し、双方以外にも中国人一〇○万人、米国人三万六〇〇〇人が死亡した。韓国は最近、中国と大接近し、友好関係を築こうとしているが、この戦争に開する韓国の歴史認識はどうなっているのか。最近の中韓接近と友好関係に先立って、あの朝鮮戦争について、中韓両国はその歴史認識で話し合い、合意したのであろうか。



文芸春秋 2014年9月号