誤れる「腰史認識《との戦い
  歴史は虹のようなものだ

  日本通史を物語るに当って

  渡部昇一


   WiLL 2017年7月増刊 




                                                                                   国史とは、無数の歴史的事実から、その国民の共通意識となるような「虹《を見ようとする行為である。とてつもない方向を見ている人や、個々の事実に密着するだけの人には、「虹《は見えてこない……。

「歴史とは何か《ということを考える時に私の頭にはすぐ二つの比喩が浮ぶ。

 その一つは「歴史は虹のようなものだ《というオーエン・バーフィールドの比喩である。彼は「歴史的事実《と「国史《すなわち一国の共同表象になる歴史を区別した。歴史的事実は中央・地方・対外の出来事などなど無数にある。それは雨後の空に残った水滴の如きものである。しかしそこに虹を見ようとするならば、特定の視点と距離が必要である。雨が上がったからと言って、どっちを向いても虹が見えるものではない。視線の方向が重要である。また虹をもっとよく見ようとして近づけばよりよく見えるものでもない。虹にあまり近づくと虹は消えてしまう。つまり国史というのは無数の水滴の中に虹を見ようとする行為に似ていて、無数の歴史的事実の中に、その国民の共通意識となるような虹を見ようとする行為と言うべきものなのである。とてつもない方向を見ている人や、個々の事実に密着するだけの人には虹の見える距離がない。

 もう一つの比喩は、「群盲撫象《というお経の言葉である。これは一般に「群盲象を撫でる《という言い方になっている。昔、ある王様が大勢の盲目の人に象を撫でさせ、「象はどんなものだったか《と答えさせたという話である。象の腹を撫でた者は太鼓のようだと言い、尾を振った者は杖のようだと言い、耳を撫でた者は笊のようなものだと言い、牙に触った者は角のようなものだと言い、鼻に触った者は太い綱のようなものだと答え……という風に続く。いずれも正しいが、同時に正しくない。局所的に止しいと確信したこと、しかも局所的に正しいことは本当なのに全体としてはとてつもなくトンチンカンということもある。それよりはざっとでもよいから、象のスケッチをしたら象の形はよくわかるし、その側に象使いでも画き添えたら象の大きさまでわかる。

 アレキシス・カレル(一九一二j*ミノーベル生理・医学賞受賞)は近代医学は局所的には緻密に研究されているが、だからと言つて人間そのものの理解を深めているわけではないとして、『人間*この未知なるもの』(渡部訳 三笠書房)として人間全体のスケッチを書いてみせてくれた。この本を読んだ人は、これを知らない専門医より人間のことはよく理解できるということもありうるであろう。象の牙に実際に触れたことがあって「象は角の如きものだ《と主張する者よりも、実物の象は知らないが象のスケッチを見た人の方が、象についての観念としてはより正しいと言えるのと同じことである。

 英文法書の起源を訪ねるところから始めて、イギリスの国学ともいうべきものの研究を本職としている私が、柄にもなく日本史の本を書いたのは昭和四十八年(一九七三)であった。その動機はフルブライトの招聘教授としてアメリカの諸大学を廻っているうちに知り合いになつた若い日本人たち * 私もまだ若かったのだがの日本の歴史についての驚くべき無知ぶりに慄然としたことであった。それで帰国後に、「外国に行く日本の若者もこれぐらいのことは知っておいた方がいいよ《という気持ちで書いたのが『日本史から見た日本人*古代編』だったのである。それに次いで中世編まで出したのだが、本職の『英語学史』や『イギリス国学史』などの方が忙しくなつて中断したままだった。しかし日本史に対する関心はなくなつたわけでなく、余暇はその関係の資料や著述を読み、かつ考えることに使ったという感じである。私はゴルフもマージャンも、スキーも登山もやらない。散歩以外の時間の多くは本職の本と、それ以外の本を読むことで暮してきた。泰平の逸民というべき書斎人として今年傘寿である。

「歴史《は「物語《

 日本の通史を書くことをWAC社からすすめられて、有難くその気になつた。しかし日本史はみんなが知っている話で、しかも精密な研究の積み重ねられてきている学問分野である。その通史を口述するということは正にドン・キホーテの如き話である。しかし---と私は考えた。虹なら画けるのではないか。私の見る方向だけは間違っていないだろう、という自信がある。専門の学者と違って水滴に近すぎず、十分離れているからかえつてよく見えるのではないか。象だってスケッチの方がよくわかることもあるのだ---と自分に言い聞かせることにした。

 マーク・トゥエインの話だったと思うが、ある牧師さんの説教のあとで、彼がその牧師さんに向ってこう言ったという。「すばらしい説教でしたが、私はあの説教の言葉がみな
入っている本を知ってますよ《
 その牧師は憤然とした。
「あれは昨晩、私が精魂こめて書いたものです。剰窃などとんでもない侮辱だ。私の使った言葉がみな入っている本があったら持ってきて見せて下さい《

 トゥエインはウェブスターの英語辞典を持ってきたという。

 これから私が書くことはすべて何かの本に出ていることだ。日本には『大日本史科』はじめ多くの資料集、多くの専門家が執筆している何巻もの通史などなど、それこそ汗牛充棟もただならぬ日本史関係の本がある。しかし辞書にすべての単語が入っていても、それを使う人によっては説教にもなり、詩にもなり、小説にもなる。

 問題は単語の使い方、組み合せ方である。私の通史には専門家に知られていない事実など、一つも含まれていないはずだ。その歴史的事実という無数の水滴に満ちた空の中で、私が見た「虹《を、私の言葉で紡ぎ出して行きたいと思う。何を語るより何を語らないかがスケッチのスケッチたる所以である。歴史という英語、ヒストリィ(histry)は「物語《のストリイ(story)と同一語源であるし、ドイツ語のゲシヒテ(〔Geschitee)は、今でも「歴史《の意味でも「物語《の意味でも使われる。こうした言葉にふさわしく私も口述する、つまり物語ることにした。「語り物《の一種として読んでいただければ幸いである。
          『歴史通≡一〇一〇年三月号初出)