若泉敬
  沖縄での自決を考えた「国士《

  谷内正太郎
  国家安全保障局長


    文藝春秋2017年4月号




 当時まだ三十代、気鋭の国際政治学者でありながら、じつは佐藤栄作首相の〝密使″として渡米。沖純返還のため、外務省にも秘密の交渉を米大統領補佐官らと行った若泉敬(一九三〇~一九九六)。
 長年その薫陶を受けた〝愛弟子〟の谷内正太郎氏(73・国家安全保障局長)が思い出を語る。

 私が最初に若泉さんと出会ったのは、富山から出てきて東京大学に入った一九六二(昭和三十七)年のことでした。友達から、「学生土曜会《という集まりで読書会をやっているので釆ないか、と誘われたのです。その会は、当時の学生としては珍しく、思想的に真ん中から右側の集まりでした。私は大学に入った時から、授業中に乱入してきてアジ演説をぶつ学生運動家の独善的で攻撃的なパラノイア的体質に反発していましたから、やがて進んで参加するよぅになりました。読書会後にはOBの先輩方も含めた飲み会があり、その後内閣安全保障室長になる佐々淳行さんや「中央公論《編集長になる故粕谷一希さんも来られていた。その中に、若泉さんもいたのです。

 私は大学院を修了後の一九六九年に外務省に入りましたが、独身寮の抽選に外れてしまった。どうしたものかと思っていたら、若泉さんが「じゃあ家に釆たらいい《と声をかけてくださり、荻窪にあったお宅にお世話になることになりました。若泉さんは非常に生真面目で誠実、ストイックな方でした。私にはとても真似できませんが、ただ私は富山、若泉さんは福井と同じ日本海側の出身で、何となく共感があったのかなという気もします。

 居候を始める前に一点だけ強く言われたのは、「外務省の中では、私と親しいなどとは絶対に言わないほうがいい《ということでした。その理由は、二十五年後に若泉さんが『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』を著し、有事の際の沖縄への核再持込みに関する〝密約″の存在を告白することで初めて明らかになります。

 一緒に住んでみると、若泉さんはしょっちゅう海外出張に出かけ、在宅時も度々国際電話でのやり取りに没頭されていて、ゆっくり話す暇などありませんでした。当時は京都産業大学教授でしたが、上可思議なまでの忙しさです。「なぜそんなにお忙しいんですか?《と尋ねる私に、一言「国事に奔走しているんだ《。後にご家族に聞くと、国際電話代が月五十万円に及ぶこともあったそうです。私の初任給が月三万円にも満たない時代ですが、それを政府に請求することもなかったといいます。

 一九六九年十一月、三年後の沖縄返還に合意する佐藤首相とニクソン大統領の「共同声明《が発表されました。〝密使″として奔走し続けた若泉さんは、しばらくすると、故郷・福井の鯖江に隠遁します。その後も私には年に数回、突如電話で呼び出しがありました。鯖江駅を降りると、迎えに来てくれた若泉さんと地元の魚を買い、酒を酌み交わして語り合う関係が続きました。ただ、「普段何をされているんですか《と聞いても「歴史の本を書いていてね《というばかり。九四年五月に『他策~』が送られてきた時は心底驚きました。

 若泉さんには、密約を結ばぎるを得なかったことについて、特に沖縄の人たちに申し訳ないという気持ちが終生あったようでした。実は本を刊行した直後の一九九四年六月二十三日、沖縄戦が終結した「慰霊の日《に自裁しようとしたことを、若泉さんから打ち明けられたことがあります。鯖江で、二人きりで次のようなお話をうかがう間、その日からは涙がポロポロと流れていました。

 その日、喪朊で国立沖縄戦没者墓苑を訪れた彼は、慰霊碑に祈りを捧げ、そこで自決するつもりでした。事前に遺書も準備し、沖縄の葬儀屋も手配し、準備万端整えて沖縄に飛んだはずでした。ところが、いぎ着いてカバンを開くと肝心の遺書がどこにもない。そこで、仏教徒で非常に信心深かった彼は、「神仏が『まだお前は死ぬには早い、やり残したことがある』と伝えているのではないか《と思ったというのです。

 以後、がんに侵されながらも『他策~』の英訳に没頭します。若泉さんは当初、日本語版出版によって「密約《を知った国民の間で議論が湧きあがり、「愚者の楽園《たる日本に警鐘が乱打される事態を企図していました。日本国民に対して、安全保障や国家防衛、核抑止力の問題を真剣に考えてほしいと常に切望していた。密約について国会に証人喚問されれば応じる準備までしていました。しかしながら論壇でもほぼ黙殺され、時の政府も密約の存在を認めなかった。そこで、英訳版を出して欧米で評判になれば、逆輸入の形で日本のメディアも取り上げるのではないかと一繚の望みを抱いたのです。私も翻訳、出版のアレンジや、原本のどこをカットするかの編集作業を手伝わせていただきました。

 一九九六年七月二十七日、私は『他策~』の英訳者の一人、現在は英ケンブリッジ大学教授のジョン・スウェンソン=ライトさんを連れて鯖江にうかがいました。当時がんが進行していた岩泉さんは自宅のベッドで点滴を受けていましたが、私たちが着くと起き上がり、すっと背筋を伸ばして英訳のお礼をおっしゃった。長居せずに辞去したところ、その晩に「亡くなった《と連絡があり、急いで鯖江に引き返しました。最期に一緒にいた人たちの話では、どうやら英訳版出版の契約書などにサインした後、自ら何らかの薬を朊用された、ということのようでした。

 若泉さんを思うと、やはり「国士《という言葉が最もしっくりきます。その潔く鮮烈な生き方への憧れが、今も私の胸には刻まれています。