最後の資本主義
  政治の大変革なしに米社会変わらず

  ロバート・B・ライシュ著{東洋経済新報社・2376円)伊東 光晴 評


    2017.01.28 毎日新聞


 注目すべきライシュの本の翻訳がでた。

 著者はハーバード大学教授から、ビル・クリントン政権の労働長官に転じ、退職後、カリフォルニア大学バークレー校の教授となった人で、ガルブレイス亡き後、その流れをつぐ一人と考えられている。

 一九三〇年代・ニューディールとしてはじまるアメリカの新しい政治・経済の流れは、戦後三〇年間続き、一九八〇年以後、逆の流れとなった。それが、貧富の差の拡大、中産階級の衰退、ワーキング・プアの増加、働かざる富者の台頭を招いている。それを逆転させなければならない。これが本書の中心軸である。

 大きな政府か、小さな政府かではない。市場のルールの変化が問題である、からはじまる。

 下から上に吸い上げられていく富が、かってのように下に分配されず、上に集中していくようになった、と。何よりも経営者の報酬が、株価上昇の成功報酬という契約ルールによって激増する。経営者支配下の企業では考えられないことであり、株主主権という企業観のもとで生まれた市場のルールである。資金の運用者の報酬も、この成功報酬によって巨額化する。

 ニューディール下で合法化し、巨大化した労働観合が発揮していく対抗力や、農民の結集力を助けて穀物価格を引き上げ、小商店を寡占企業の力から守ろうとしたフランクリン・ルーズベルトの政策等々、ガルブレイスが「拮抗力《と呼んだものが、競争力とともに市場を動かしていた時代が、八〇年代以後変化していく。拮抗力の衰退であり、それがアメリカの分配関係を大きく変えだしたと著者は見る。

 特許、著作権もおかしくなっている。

 製薬会社は、特許を永続させるため、疑似新薬を次々に出し、これを許す行政がまかり通り、バイオ大手のモンサントは、一代限りの種子を農家に供給し、独占をはかっている。技術革新が独占を許しているのである。

 著作権保護期間の延長の背後に、ミッキーマウス---ディズニーの政治力があるとは、はじめて知った。

 アメリカの政治を動かす二大要因は、政治献金とロビー活動であることは、よく知られている。ライシュはこれに斬り込む。

 驚いたのは、元上院議員の半数がロビー活動に専念し、下院議員の四二%が同様だという。その理由は、報酬が巨額になったためだという。

 かってアメリカは、銀行と投資銀行(証券会社)を分離し、州をまたいでの銀行を認めず、経済力の分散をはかっていた。だがこれも逆転した。一体化を認めた政治家の一人がクリントンである。彼が財務長官に任じたルービンをはじめとする、投資銀行の面々や、その流れが明らかにされ、彼がルーズベルトの流れではないことがわかっていく。オバマもこの流れを受けつぐ。世評と違って、大企業に優しいオバマである。

 カリフォルニア州では、企業のトップの報酬が、従業員の平均給与にくらべ、相対的に低い企業は法人税率が低いという法律があるという。一見奇妙な制度であるが、これを逆転し、トップの報酬が高い企業は法人税率を高くすればよい。そうすれば株価は下がり、成功報酬もなくなる。ニッサンはゴーンの高報酬ゆえに高い法人税率である。

 アメリカの時流に抗して反株主主権、従業員に優しく、顧客のためのスーパー〝ベネフィット・コーポレーション″が生まれたという。

 この本を読んでも、なおよくわからないのは、アメリカ資本主義を大きく変化させた真の要因が何なのかである。中産階級の衰退の背後にあるものでもある。

 同時にアメリカ資本主義の再転換は、何によっておこるのか。ライシュがこの本を〝SAVING CAPITLISM″と吊づけている以上、彼もその可能性を信じているに違いない。それがよくわからないのである。

 訳者は、資本主義を救う道を、解説の中で、〝ベネフィット・コーポレーション″に求めている。だが、それは一地方の話であろう。

 大きな政治の変革なしに、アメリカ社会は変わることはないのではないか。ルーズベルトの登場、ニューディールの展開のように。

 トランフの登場は、それを用意しているように私には思える。彼が内外に問題を引きおこし、国民の批判が高まり、民主党がルーズベルトからケネディに流れる中での人材を候補者に選ぶならば、大きな転換がおこるに違いない。ほとんど無吊に近かったサンダースでもおれだけの支持をえたのである。

 サンダースは、上院議員エリザベス・ウォレンの支持とその組織の上でたたかった。ウォレンは、リベラル派の本命と目されたが、ヒラリー・クリントンとの関係で立たなかった。本書では、ニューディール治下の金融規制法の復活を支持する人として登場している。四年後に期待するのは私だけではないだろう。    (雨宮寛、今井章子訳)