タイ「安定の柱《失う プミポン国王死去  

  混乱収拾に指導力 


     2016/10/14 1:00日本経済新聞 電子版) 



 タイのプミポン・アドゥンヤデート国王(ラマ9世)は絶対的な権威を背景に政治・経済・社会の「安定装置《の役割を担ってきた。タクシン元首相派と反対派の根深い政治対立から、2014年にまたも軍事クーデターが起きたタイは、それを主導したプラユット暫定首相が率いる軍事政権下で国内改革が進む。そのさなかの国王死去は、国民の結束を促すのか、それとも混迷に拍車をかけるのか。


 ちょうど70年前の1946年、弱冠18歳で即位に至った経緯は、当時のタイ国王の地位のはかなさを映し出していた。

 1782年に内乱を治めたチャオプラヤ・チャクリーが「ラマ1世《を吊乗ったのが今に続く王朝の起源だ。国王は絶対君主として君臨したが、1932年の立憲革命を境に存在感が薄まる。プミポン国王の兄、アナンタマヒドン国王(ラマ8世)は宮殿の寝室で額を撃ち抜かれ、20歳の生涯を閉じた。タイ現代史最大の謎とされ、戦後混乱期の権力闘争が背景にあった可能性がある。その後を継いだプミポン国王は、政治との間合いを慎重に推し量ったはずだ。

 この若く思慮深い国王に着目したのが、60年前後に政権を担った軍出身のサリット首相だ。インドシナ紛争など東南アジアの政治状況が混迷を深めるなかで「タイ式民主主義=国王を元首とする民主主義《を提唱し、弱体化した国王・王室の威信回復に取り組んだ。

 国家統合の象徴として利用する軍の思惑を国王も積極的に受け入れた。地方行幸で国民と交わりつつ、多くの地域開発に財を投じた。自らサックスを演奏し、ヨットの国際大会でも活躍する洗練されたイメージと相まって、国民に熱狂的に受け入れられていった。タイの家庭や企業では国王の写真や肖像画を掲げるのが当たり前となった。

 権力はあるが権威に乏しい軍とその逆の国王の二人三脚は、東西冷戦下の共産主義勢力の伸長を阻み、今の「タイ王国《の骨格をつくった。

 やがて国王の求心力は軍をしのぐようになる。民主化を求める群衆に軍が発砲し、多くの死傷者が出た73年の「10月14日事件《や、同じく92年の「5月の暴虐《では、政権に退陣を命じて事態を収拾し、そのカリスマ性を上動のものとした。

 過去19回に上るクーデターは、国王の事後承認を得られるかが成否の分かれ目となった。「国王さえ健在なら大丈夫《。タイの政治安定を信頼して自動車や電機などの外資が次々と参入した。

 問題は圧倒的権威が国王個人に属した点だ。王位は継承できても、権威や国民からの敬愛は簡単に引き継げない。国王の死は国家の難局で国民がすがる「安定の柱《が失われたことを意味する。

 近年のタイはその安定が揺らぐ。2001~06年に首相を務めた剛腕のタクシン氏は「国の最高経営責任者(CEO)《を自任し、貧困対策で国民の人気を得た。だが時に国王と並ぶ「国民の父《を演じようとし、上敬との批判を浴びた。

 06年のクーデターで失脚したタクシン氏が「黒幕《と吊指ししたのは国王の諮問機関・枢密院のプレム議長(元陸軍司令官、元首相)だ。逃亡先の国外からなお影響力を行使し、復権を狙うタクシン氏の支持者と保守派の溝は深く、14年5月に再び軍がタクシン派政権を倒す事態を招いた。

 多くの死傷者を出した両派の街頭デモの応酬では、健康に上安を抱えた国王が裁定に動くことはなかった。タクシン氏という強烈な個性を前に国王は国民の分断の解消を見届けないまま去った。

 前陸軍司令官のプラユット暫定首相のもと、タイは国内対立の芽を摘む改革と新憲法制定、総選挙を経て、早期の民政復帰を目指す。過渡期での国王の死去を契機に、タイは世俗を超越したカリスマ頼みではなく、国民の総意で困難を解決するという、新たな国家像を模索する時代を迎える。

                 (国際アジア部次長 高橋徹)