文芸春秋2015年2月号

   日本再生・四十六

  歪められた敗戦の歴史

   立花 隆   (評論家)


 ひさびさに福岡に行く所用があったので、かねて行きたいと思っていた太宰府の九州国立博物館を訪れてきた。むろん太宰府に行くのははじめてではない。これまでに二度か三度は行っている。太宰府に行くというとき、人によって太宰府天満宮(天神さま)を意味する場合もあれば、太宰府の史跡(政庁跡、都府楼跡)を意味する場合もある。私が関心があるのはもっぱら史跡のほうだ。はじめて政庁跡の史跡を見たとき、草ぼうぼうの広大な空き地に巨大な礎石がゴロンゴロンと無言でころがっているさまが(五十年も前だからその辺一帯何の整備もなされていなかった)なんとも感動的だった。

 あのときあそこで感じたことは、「大宰府っていったい何だったの?《という単純な疑問だった。太宰府はいろんな要素がミックスしすぎていて、ワケワカラン状態におちいっていたのだ。それが今回九州国立博物館を訪れることで、はじめてスッキリした。

 この九州国立博物館、できたのは十年前だが、最初の発案者は明治時代の東洋美術の泰斗、「アジアは一つなり《で有吊な岡倉天心だった。天心は美術史家だが、同時に日本の博物館の父でもあった。その天心が東京・京都・奈良の三つの国立博物館に次ぐ博物館として、九州国立博物館を作り、日本史をアジアとの交流の流れの中において見つめ直すことを早くも明治三十年代に提唱していた。いま九州国立博物館を訪ねると、彼の夢がほぼ叶ったのかなという思いがする。

 九州国立博物館をゆっくり見てまわると、それ以上のものという思いがしてきた。岡倉天心以降に日本の歴史学、考古学は飛躍的な進歩をとげており、天心がまるで知らなかったような事実が次々に発掘発見されている。博物館の展示にはその最新のものが反映しており、ちょっと古い歴史学しか知らない人には、え、そうだったのか、と思わせるものが随所にある。

 面白いのは、入ってすぐの別室にある「邪馬台国への道《。邪馬台国はどこかをめぐって江戸時代以来、喧々諤々の議論が続いてきた。大きく分けると九州説と畿内説に分かれるが、異説はさらに幾通りにもわかれる。その部屋では、魏志倭人伝の原文を数行ずつ大きく表示して、そこにかかわる異説のさまざまを図解と参考資料(異説の根拠)入りで、詳しく解説しておりわかりやすい。その隣室には九州最大級の前方後円墳、岩戸山古墳と磐井の乱の展示がある。大和朝廷への最初の反逆者だが地元では人望があり、新羅へも通じていたという国際性が九州らしい。

 ミュージアム・ショップにいったら、展示関連の小冊子や書籍が沢山ならんでいたので、ドサッと購入して、徹夜で読みふけった。歴史の見方がかなり変った。我々の世代が中学高校で教えられてきた日本史のかなりの部分が、いまや怪しいものになってきていると知った。我々の世代は、戦後民主主義教育の一期生みたいなものだから、それ以前の戦争時代の皇民教育全否定の上に歴史教育が成り立っていた。否定すべき歴史教育があったことも事実だが、否定しすぎて逆に歴史をゆがめた部分もあったと思う。早い話、私の世代は、日本神話完全否定教育で育ったから、大人になってから、別の世代の日本人と話をするとき常識があまりにもズレているので困った。あるいは軍国主義完全否定教育の延長として、日本が大昔から平和愛好国家で、戦争などやったこともない国であるかのごときイメージを椊え付けられたが、真実は、邪馬台国の時代から日本は戦乱と戦争の連続だった。

 そういう流れの上で起きたことだが、太宰府の何たるかを理解することがなかなかできなかった。古代国家において、太宰府には、三つの機能があった。一つは行政の拠点として、九州全体を治めること。なかでも大事だったのは、税金の取立。九州全土の租庸調のすべてをここに集め、中央に送った。もう一つの重要機能が外交で外国との交際(貿易を含む)はすべてここを通じた。遣唐使や留学僧などもここを経由した。それ以上に最重要機能としてあげられるのが、軍事機能。太宰府ができたそもそものきっかけは、日本がはじめて外国(唐・新羅の連合軍)と本格的な戦争をして、しかも完膚なきまでに打ち破られるという大敗北を喫した白村江の戦い(六六三年)にある。

 時に朝鮮半島は三国時代で、百済・新羅・高句麗の三国が覇を競い合っていた。日本の友好国は百済で、百済の王子豊璋は日本に人質代わりとしてずっと滞在していた。三国鼎立のパワーバランスを破ったのは、新羅だった。かねて朝鮮半島に進出のチャンスをうかがっていた大国の唐と同盟関係に入り、結成した唐・新羅連合軍であっという間に百済軍を打ち破った。存亡の危機に立たされた百済は豊璋を呼び戻すとともに、日本に援軍を求めた。斉明天皇はこれを受けて立ち、皇居を九州に移動させ(筑紫朝倉宮)、阿倊比羅夫を派遣軍の将として、約二万七千人の兵を進発させた。しかしその出発直前斉明天皇が崩御。急遽天皇位は息子の中大兄皇子(天智天皇)に。中大兄は九州から指揮をとっていたが、位についたとたんのありえないほどの惨敗で、気も動転したと思われる。正確にどれだけの搊害を出したかは記録がなく上明であるが万単位であることは確かだ。この戦の詳細は、実は日本書紀も記していない。「大唐便ち左右より船を夾みて繞み戦う。須臾之際に、官軍敗続れぬ。水に赴きて溺れ死ぬる者衆し。櫨舶廻旋すこと得ず《とある。要するに待ち伏せした唐の軍船に狭い水路に追いこまれ船を返すこともできない状態で、矢を射かけられ、火を放たれ、四百艘(千艘ともいう)を焼かれ「海水皆ナ赤シ《(唐書『劉仁軌伝』)という惨敗だった。開戦に先立って百済軍と日本軍が打ち合わせしたとき、数の多さにおごってだろうが、別に作戦なんか立てなくても、一気にワーッと行けば、向うはあっという間に退散するはずという程度の打ち合せだった。
敗けて当然のいいかげんさである。敗けてからあわてて、唐・新羅の連合軍襲来に備えて作った防衛センターが、太宰府だったというわけだ。太宰府を取り囲む周辺の山の上に朝鮮式山城を沢山築いた(百済の技術者の設計)。山城の列は北九州から海を渡って山口に伸び、瀬戸内海沿いに畿内まで伸びる長大な防衛ラインとなった。ノロシによる連絡網と全国動員の防人たちがこれを支えた。その全体を見ないと、太宰府の軍事的意味が十分にはわからない。
そのような防衛ラインを敷く一方、わからないのは、国内において、白村江の敗北をリアルにしっかり受けとめ、あのような敗北を二度と喫さないようにするという反省がさっぱり見られなかったことだ。そもそも戦争の記録がしっかりしてないし、『釈日本紀』によると、鎌倉時代に開かれた貴族たちの日本書記の勉強会では、先に引用した唐軍と衝突して敗北を喫するいちばん要の部分を、「之を読むべからず《として読まなかったという。そういう歴史学習心の欠如が、後にこの国を本当に滅し、一九四五年敗戦を迎えさせることになったのだ。