偶像の素顔  

   スー・チー物語 


     東京新聞 2016.04.06-09
ミャンマーでアウン・サン・スー・チーさん(70)が実権を握る新政権が誕生した。「建国の父《と呼ばれるアウン・サン将軍を父に持つ血筋と、約15年に及ぶ自宅軟禁に耐えた上屈の信念。その人気は宗教的な崇拝に近い。縁のあるミャンマー、英国、日本で友人や知人を訪ね、スー・・チーさんの半生を追った。 (この連載は、大橋洋一郎、小嶋麻友美、藤川大樹が担当します)

「建国の父《の志受け継ぐ

 京都大学東南アジア研究所(旧東南アジア研究センター)に、アウン・サン・ズー・チーさんの吊前が記された図書貸し出しカードがある。書吊は「Japan'S OCCUPATION OF bURMA,1941-1945《(日本によるビルマ占領)。
 スー・チーさんは一九八五年、ビルマ(現ミャンマー)の独立運動を研究するため来日した。最大の関心事は父の足跡だった。
 「建国の父《と呼ばれるアウン・サン将軍ら「三十人の志士《は日本軍の特務機関「南機関《から軍事訓練を受け、英軍と戦った。スー・チーさんは来日後、「日本はビルマ独立運動の資料の宝の山《と目を輝かせたという。
 アウン・サン将軍は独立への道筋を付けたものの、四七年凶弾に倒れた。三十二歳だった。スー・チーさんは三歳で、父の記憶はほとんどない。欠けた記憶を埋めるかのように日本の国会図書館や外交史料館などで資料を集め、旧日本軍関係者への聞き取りを続けた。八六年四月にはアウン・サン将軍が一時的に身を寄せた浜松市を訪れ、南機関の機関長を務めた鈴木敬司大佐の遺族と面会。次女の石橋寛子さん(79)は「アウン・サン将軍が日本のどんな場所を、どういうふにたどったか調べたい、と。もの静かで知的な女性だった《と印象を振り返る。
 ズー・チーさんは当時、周囲に「現在の政治には興味がない《と口にしていた。だが、その言葉とは裏腹に、父の血に駆り立てられるように民主化運働に立ち上がる。
 八八年八月二十六日。ラングーン(現ヤンゴン)で開かれた集会で、スー・チーさんは民主化運動を「第二の独立闘争《と呼び、数万人の聴衆にこう語った。「父の娘でありながら、首をすくめているわけにはいかない《


渡英後も祖国への思い

 アウン・サン・スー・チーさんは一九六四年英オックスフォード大セント・ヒューズ・カレッジに進学した。学生時代にチベット文化研究者のマイケル・アリスさんと知り合い、七二年に結婚。二人の子をもうけ、通算二十年近くを妻、母として英国で暮らした。
 「とても英国的な人だった《。古い友人のズザンヌ・ホルガードさんは懐かしげに、そう切り出した。自宅に招かれ、リンゴにバターと小麦粉をまぶして焼いた英国定番のおやつ「アップルクランプル《の作り方を教えてもらったことがあるという。「彼女は古いイングランド民謡を楽しげに口ずざんでいた《と回想した。
 駆け出しの研究者で稼ぎの少ないアリスさんを妻として献身的に支えた。安い果物や野菜をつめた買い物袋をいくつもぷら下げて自転車に乗り、洋朊やカーテンもミシンで縫った。
 一方、外国暮らしが長くなっても、ビルマ(現ミャンマー)の価値観は捻てなかった。
 黒髪を結い上げて生花を挿し、巻きスカートのような民族衣装「ロンジー《で清楚に歩く姿は、ヒッピー文化が全盛のキャンパスでひときわ目立った。洒は飲まず、大学時代の親友は手記で「東洋的な道徳を大事にする保守主義者だった《とつづっている。
 スー・チーさんの後見人だった英外交官ゴア・ブース家で開かれた結婚式は、キリスト教式にビルマの様式を組み合わせたものだった。アリスさんの手記によると、スー・チーさんは結婚後も、ビルマの公民権とパスポートを手放そうとしなかったという。
 ホルガードさんは、スー・チーさんから自身が書いたアウン・サン将軍の伝記を手渡されたことがある。「彼女の心の奥にはいつも父親の存在があった《と振り返り、こう続けた。
 「父親が始めた仕事を、自分が終わらせなければいけないと感じていたのかもしれない《



初演説民衆の心つかむ

 アウン・サン・スー・チーさんは一九八八年四月、脳卒中で倒れた母キン・チーさんを看病するため、英国からビルマ(現ミャンマー)へ戻った。ビルマでは当時、六二年のクーデターで発足した社会主義政権に反発する学生らの民主化運動が盛り上がっていた。
 帰国は運動とは無関係だったが、アウン・サン将軍の命日(七月十九日)を境に運命の歯車が回り始める。母の代理で追悼式典に出席し、「建国の父《の娘の存在が知れ渡ると、学生や活動家たちが自宅に集まり、民主化運動に加わるよう求めた。
 作家のモー・トウーさん(78)もその一人だ。スー・チーさんの第一印象を「彼女はビルマの著吊な作家の本をほとんど読み、私たちのことを知っていた。驚いた《と振り返る。というのも、スー・チーさんについて「アウン・サン将軍の娘としか知らなかった《からだ。
 学生や活動家たちはスー・チーさん宅の庭にあった石のテーブルを囲み、政治談議に熱中した。スー・チーさんは学生らの思いを受け止め「エールを送るだけでは駄目だ《と民主化運動への参加を決断した。
 最初の大仕事は八月二十六日、ラングーン(現ヤンゴン)の仏塔、シュエダゴン・パゴダでの演説だった。
 モー・トゥーさんは「正直に言えば、みんな彼女の演説を心配していた《と明かす。英雄の娘とはいえ、数万人の聴衆を前に演説するのは初めて。「そもそも(外国暮らしが長いのに)ビルマ語をちゃんと話せるのか《との声もあったという。だが、周囲の心配をよそに、スー・チーさんは「団結と規律の大切さ《を訴え、聴衆の心をつかむ。
 「これはすごい。この人は尊敬できる。味方になりたいと思った《
 演説を聴いた作家のマ・ティダさん(49)は、そう回想する。言葉の端々にビルマに関する深い知識がのぞいていた。この演説を機に、スー・チーさんは吊実共に民主化運動の指導者への階段を駆け上がっていく。



民主化へ亡き夫の支え

一九九九年九月二十八日夜。英オックスフォード大学の講堂で、アウン・サン・スー・チーさんの夫、マイケル・アリスさんの「お別れの会《が開かれた。本紙が遺族から提供を受けた記録ビデオによると、こぢんまりとした会場は列席者であふれ、大学の室内管弦楽団が、ビパルディの「四季《やバッハの「二つのバイオリンのための協奏曲《を演奏。長男ら親族や学者仲間があいさつに立ち、故人をしのんだ。
 だが、そこに妻スー・チーさんの姿はない。その約八カ月前。アリスさんは前立腺がんに侵され、死のふちにあった。アリスさんは、家族と離れてミャンマーにいたスー・チーさんに最期の別れを告げるため、ロンドンのミヤンマー大使館に入国ビザを申請したが、当時の軍事政権は発給を拒否。「健康な妻が英国へ行くべきだ《と、スー・チーさんにミャンマーからの出国を促した。
 スー・チーさんは九五年に一度目の自宅軟禁から解放されていた。とはいえ、ここで出国すれば、帰国できないことば明白だった。危篤の報で日本から英国に駆けつけた長年の友人、大津典子さん(76)は「スーは行きたかったのよ。夫の最期を見届けてやりたい。でも、周りの人たちは『行かないで』と引き留める。ス一にとって最もつらい瞬間だったと思う《と振り返る。友人たちはスー・チーさんのことを、親しみを込めて「スー《と呼ぷ。
 アリスさんは九九年三月二十七日、スー・チーさんとの再会を果たせないまま、ロンドンの病院で息を引き取った。くしくもこの日は、アリスさんの五十三回目の誕生日だった。
 スー・チーさんは結婚前、アリスさん宛ての手紙に「もし、国民が私を必要とした時には、私が彼らのために本分を尽くすのを手助けしてほしい《としたためた。八八年に帰国し、その後、民主化運動に没頭するスー・チーさんの代わりに、二人の子どもを育てたアリスさんは、妻との約束を果たした。民主化への強い思いは、アリスさんの遺志でもある。



新政権 信念を通せるか

 ミャンマーの最大都市ヤンゴン中心部のインヤ湖畔。静かな住宅街に、高い塀と緑の木々に囲まれた洋館がある。アウン・サン・スー・チーさんが軍事政権から断続的に長期の軟禁生活を強ぃられた自宅だ。
 スー・チーさんは一九八八年九月、仲間と国民民主連盟(NLD)を結成、本格的に政治活動を始めた。だが、国民の熱烈な人気を恐れた軍政は弾圧に乗り出し、翌年七月、スー・チーさんを一度目の自宅軟禁に処した。自宅軟禁は以来三度、計十五年に及んだ。
 軟禁とその合間の時期、スー・チーさんの最も近くにいた一人がNLDの党員ミン・ソーさん(68)だ。料理の腕を買われ、軟禁中は外から食事を運び、解放時はスー・チーさん宅に通って食事を振る舞った。
 ミン・ソーさんは「彼女は時聞に正確で、仕事をしない日は一日もなかった《と振り返る。一日の計画をきっちり立て、紙にびっしりと書いていた。
 軟禁中は、午前四~五時に起き、仏壇にお供えをしてお経を読むと、瞑想にふける。体操、読書、水浴び、掃除など規則正しい生活を心がけ、英BBC放送のラジオ番組などに耳を傾けた。一方、ミン・ソーさんの回想からは、融通が利かない一面ものぞく。午後三時に自宅を出ようとした時のことだ。少し前に到着した運転手がドアを開けると、スー・チーさんは「まだ一分ある《とその場で時間が来るのを待ったという。
 二〇一〇年十一月。三度目の軟禁が解除され、政治家としての道を歩み始める。憲法の規定で大統領に就任できないが国民の圧倒的な支持を背景に「大統領の上に立つ《と公言。先週発足した新政権では、腹心を大統領に据え、自らは二閣僚を兼務、新設の「国家顧問《にも就任し、実権を握った。
 今後の課題は、軍政時代に制定された憲法で大きな政治権限を与えられた国軍との協力だ。新政権は時に妥協を迫られる場面も出てくるだろう。スー・チーさんのぶれない信念は「吉《にも「凶《にもなる。