江戸はかってうどんの町だった。 

   岩崎信也(蕎麦研究家、フードジャーナリスト


     東京新聞2015年12月13日(日)

 「江戸は蕎麦《という決まり文句があるが、開府以来百五十年余の長い間、江戸においても上方や中部地方と同様、麺類の主流はうどんだった。江戸が本当に蕎麦の町になつたのは十八世紀半ば。この江戸人好みの麺類の逆転劇をいち早ぺ取り上げ、蕎麦党によるうどん鬼退治を描いた黄表紙『うどんそば化物大江山』は「江戸でうどんやとよぷのは万が一なり《と結び、江戸の町が蕎麦屋で埋め尽くされた様を描いている。

 江戸は幕府によって開かれた新興都市。文化的なものはほとんど上方からの借りもので、うどんの町だったのも自然の成り行きだった。その江戸で十八世紀半ば、文化的大転換が起こる。「江戸自慢《意識の高揚と「江戸っ子《の誕生である。通や粋、洒落といった江戸独自の美意識を磨いた江戸っ子たちは、手本としてきた上方の権威・伝統を茶化し、肩で風を切って江戸を自慢した。

 かくして、魚介なら「江戸前《、麺類では蕎麦こそ江戸っ子の食べ物ということになった。とりわけ蕎麦がもてはやされた背景には、江戸人の初物好きもあるだろう。当時の初物評判記をみると、新蕎麦は新酒とともに初鰹に次ぐ高位の倊率であり、加えて十五夜、十三夜の「吊月新蕎麦《としで風流の場でも珍重されている。

 声高に自讃を叫んだ江戸ではあったが、酒と醤油ばかりは上方からの下り物にかなわなかった。しかし、十九世紀に入って関東産の濃い口醤油の品質は格段に向上して市中に浸透。さらに砂糖、みりんの普及もあって現在と同様のそばつゆとなる。高級料理屋が贅を競い江戸の味が完成されたこの時代、江戸蕎麦もまた頂点を極め、江戸人の味覚そのものとなつたのである。