(インタビュー)TPPの底流  

   政策研究大学院大学学長・白石隆さん


     2015年10月7日05時00分 朝日新聞
    
  日米など12カ国で続けてきた環太平洋経済連携協定(TPP)の交渉が大筋で合意した。米国主導を日本が支え、アジアの新しい通商の枠組みをつくる意味は何か。TPPでアジアのパワーバランスはどう変わるのか。アジア地域研究の第一人者で、政策研究大学院大学学長の白石隆さんにきいた。

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 ――TPPの大筋合意をどうみますか。オバマ米大統領は「中国のような国に世界経済のルールを書かせられない《などとする声明を出しました。

 「先進国の経済が世界全体の半分以上を占めているうちに、日米でアジアの通商秩序を整える主導権をとれた意義は大きい《

 「世界経済は今、中国をはじめとする新興国の台頭によって、大きな構造変化がおきています。米国は『アジア回帰』を掲げつつも、単独でこの地域の安定を維持するのは難しく、この地域の同盟国、パートナー国との連携を重視するようになっている。日本は米国や他のパートナー国とともに、地域のバランス・オブ・パワー(力の均衡)を保つ役割を担わなければならない。また、通商問題など国境を越えたルール作りについても連携しなければならない《

 ――日本にとっての意義は。

 「二つあります。経済面では、アベノミクスの成長戦略の起点になる。農業対策など1980年代から積み残してきた課題は多い。大筋合意を機に産業構造を見つめ直し、改革を進めるべきです《

 「安全保障面では、新しい安保法制の成立とともに、米国とのパートナーシップを深化させることができる。日米が協力して成果をあげた意味は大きい《

 ――米国は東西冷戦中、共産化を避けるためアジアの国々を支援しました。中国が台頭するなか、米国に都合のいいルールをアジアに広げる試みでは。

 「TPPは中国を敵視したり、排除したりする枠組みではありません。アジア、とりわけ東南アジアは、関税の削減よりも、サービス分野の自由化、知的財産権の保護などが、さらなる経済成長のカギをにぎる発展段階に移っている。中国も上海などに自由貿易試験区を設けて、サービスの自由化を進めようとしている。質の高い通商ルールを誰が先につくり、広げていくか。いわば新たな秩序を構築するための規格争いです《

 「その意味で、ベトナムが大筋合意に加わっている意義は大きいと考えます。東南アジアの中でも発展の程度はさほど高くないが、経済と安全保障の両面からTPPに入る決断をした。TPPを生かしてうまく成長できれば、アセアンの他国も続く可能性がある《

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 ――それにしても日本はなんでも米国追随でいいのでしょうか。

 「アジアでは今、協力ゲーム、つまり金融や貿易でいかに協力しあうかというゲームよりも、パワーゲームが重要になっています。戦後日本の外交・安全保障の基本である日米同盟の重みも増しています。日米の立場が大きく離れると力の均衡が崩れ、将来への見通しが悪くなる。安全保障の分野は、経済に比べると日本の行動の自由が限られていますが、その範囲内で日本が独自にできることを日本の判断でやる。それが日本の国益になります《

 ――中国への対抗が必要、と。

 「日本の外交・安全保障政策を常に中国への対抗、牽制というレンズだけで見るのは賛成できません。確かに、中国は2008年ごろから自己主張を強め、最近では南シナ海の岩礁を埋め立てて滑走路を造り、軍事利用しようとしています。主権・領土の問題では譲歩しないとも明言しており、大国である自分たちが強く出れば周辺の国は黙ると考えて、機会があると力で現状を変えようとします《

 「太平洋からインド洋に至る、広大な地域における力の均衡の維持は非常に大事です。世界や地域のルール、規範を一緒に作ってはじめて、大国として尊敬される。これを中国にわかってもらわなければならない。日本が新安保法制とTPPを両輪にして日米同盟を深化させ、地域の力の均衡を維持していくことは、アジアの多くの国々でも歓迎されると思います《

 「ただし、日本のアジア外交が米国と完全に同期してしまうと、アジアの国々は米国にだけ対応すればよい、ということになりかねない。それが日本外交の難しさです。どこで米国との違いを見せていくかも、重要なポイントです《

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 ――中国主導のアジアインフラ投資銀行(AIIB)に、日本と米国は参加を見送りました。

 「東南アジアの国々は当初、中国だけに都合のいいルールにならないよう、日本も入って内側から力を発揮してほしい、と考えていたと思います。しかし、日本は入らないという選択をしました。従って、世界銀行やアジア開発銀行(ADB)を通じてAIIBとの協調融資に取り組み、中国に関与していくことが重要です《

 ――習近平政権は中国と欧州を陸上と海上で結ぶ「シルクロード経済圏《構想を掲げています。日米への対抗ですか。

 「オバマ政権のアジア重視のリバランス(再均衡)戦略への対抗であることは間違いない。国内政策との関連では、経済成長率が7%を下回れば、多くの産業が過剰生産になり、赤字になる国有企業も少なくない。海外のインフラ需要を盛り上げ、資材などを輸出し、自国企業の進出を支援するということでしょう。中国企業の直接投資が進めば、日米などの企業を中心とした現在の生産網とは違うネットワークが生まれます《

 「また、長期のエネルギー供給を考えれば、中国が陸のエネルギー動脈を作りたいというのもよく分かる。南シナ海の領有権問題で対立するフィリピンやベトナムなどはともかく、タイ、カンボジアなど大陸部のアジアの国々を抱き込む狙いもあるはずです《

 ――中国は今後も、自国中心の国際的な枠組みを示してくるはずです。日本は毎回、米国と組んで対抗していくのでしょうか。

 「日米同盟は基本です。しかし、経済協力で、日本は中国と同じゲームはしない方がいい。インフラでいえば、高速道路など誰でもつくれるものは任せておけばいい。二酸化炭素排出量を低く抑えられる発電所の建設を支援するなど、質の高い協力が重要です《

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 ――日本とアジアの100年をどう評価しますか。

 「日本は第1次大戦から第2次大戦にかけて、国家戦略上、致命的な間違いをおかしました。これははっきりしています。民族自決がいわれ始めた時代に、欧州列強より一周遅れで帝国の建設に乗りだし、アジア、特に中国のナショナリズムを敵にするとともに、英米も敵にしてしまった《

 「中国は戦場となり、東南アジアの多くの国々も、占領下で経済が崩壊し、深刻な危機を招いた。1940年代後半から50年代にかけてアジアでは革命・反革命があり、独立戦争もあった。そうした中で、日本は70年前の夏、降伏した。戦後日本の出発点は、こういうアジアとどう向き合うかという問題がありました《

 ――反日感情も強かった。

 「1970年代初めにもタイで日本製品の上買運動があり、田中角栄首相のジャカルタ訪問時には暴動も起きた。その後、福田赳夫首相時代に福田ドクトリンがだされた。ベトナム戦争で米国の威信がゆらぐ中、日本は日米同盟を堅持して軍事大国化せず、経済協力で東南アジアの国々を支援するというものでした。これは今も日本の対アジア政策の基本です。アジアの発展を日本の利益と考える開かれた国益の概念は定着し、日本は、この地域の人々から信頼されるようになったと思います《

 ――ただ、中国との緊張を抱えたままでアジアは安定しますか。

 「ボールは中国のコートにあります。中国が世界でどのような役割を果たそうとしているかによります。一方、米国一極時代は終わり、中央アジアからアフリカにかけての地域では、イスラム過激派は国民国家の枠組みを壊そうとしており、中国はロシア、イランなどとユーラシアの大陸連合に向かっているように見えます《

 「日本は戦後70年、米国を中心とする自由主義的国際秩序の下で平和と繁栄を享受してきました。米国による平和とドル本位制、自由民主主義国家と市場経済という制度の上に築かれたものです。しかし、米国一国では、世界の平和の維持や通商秩序のバージョンアップはできない時代です。日本は歴史にも現状に対しても『修正主義』に陥ってはならない。今後も、現行の国際秩序を発展させる側に立つべきです《

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 しらいしたかし 1950年生まれ。専門はアジアの政治、国際関係。日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア経済研究所所長。著書に「海の帝国《など。

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取材を終えて

 中国の台頭でアジアの秩序が揺さぶられるなか、白石さんが言うパワーゲームが重要になればなるほど、協力ゲームの重要性も増すように思う。安保を絡めた規格争いから始まったTPPを、中国を引き込む協力のカードに切り替えられるか。うらやましくなるような成果があがるかどうかにかかっている。(編集委員・吉岡桂子)