日本人へ・百六十七

    負けないための「知恵《

    塩野七生(作家・在イタリア)


     文芸春秋 2017年4月号


 五十年も歴史を書いていながらこうも平凡な結論にしか達せないのかと思うとがっかりするが、それは、自らの持てる力を活用できた国だけが勝ち残る、という一事である。

 古代のローマのようにナンバーワンをつづけるケースもあるし、中世・ルネサンス時代のヴェネツィア共和国のように、ナンバーワンにはならなくても強国の一つとして、長年にわたって政治的独立と経済的繁栄を維持しつづけた国もある。ローマもヴェネツィアも、このような状態にあった歳月たるや一千年に及ぶのだから、ハンパな話でほない。

『海の都の物語』という題でヴェネツィア共和国の歴史を書いていた当時、私の頭に去来していたのは、この国は今ならば、国連の安全保障理事会の常任理事国でありつづけたろう、という想いだった。勝てばそれはそれでけっこうだが、負けさえしなければ、長期的にほ勝つことになるのである。

 それにしても、「自らの持てるカの活用《とは、もしかすると人間にとって最もむずかしい課題であるのかもしれない。だからこそ、歴史に登場した国の多くが、失敗してきたのではないか。

 ちなみに、持てるカとは広い意味の資源だから、天然資源にかぎらず人間や技術や歴史や文化等々のすべてであるのは当たり前。つまり、それらすべてを活用する「知恵《の有る無しが鍵、というわけです。

 わが祖国日本に願うのも、この一事である。

 中国を再び追い越すなど、忘れたらよい。国内総生産が世界何位になろうと、そのようなことに気を使う必要はない。大国にふさわしい外交をしたいだって? もともと「和をもって尊しと成す《を国外でも通用すると信じて疑わない日本人に、外交大国になるカがあるのか。

「外交《ではなく「外政《と訳しておくぺきであったのだ。そうであったならば、他国との間で行う政治になる。となれば、血を流さないで行う戦争であ。それが、友好的に「交わること《と思いこんでいる外交関係者にできるはずはない。よほど腹の坐った外交官でも出てこないかぎりは。

 とはいえ、日本にとって最も重要なことは、二度と負けないことである。勝たなくてもよいが、負けないことだ。

 今の日本が、国内外の問題は数多あるにせよ、他の先進国に比べて有利な点が三つある。

・ 政治が安定していること。
・ 失業率が低いこと。
・ 今のところにしろ、難民問題に悩まないですんでいること。

 この三つは、大変に重要なメリットである。なぜなら、負けないでいて、しかも長つづきしたければ、自由と秩序という本来的には背反する概念の間でバランスを取ることで、双方の良さを発揮させることが必要だ。だがそれには、経済面での格差が限度内に留まっているという条件が欠かせない。この状況下ならば、二度と負けないための諸政策を、民主制を守りながら進めていけるのである。

 西洋の歴史に親しむことで得た確信には、もう一つある。それは、強圧的で弾圧的で警察国家的な恐怖政治は短命で終わる、ということであった。

 自由の乱用に嫌気がさした人々は、秩序を求める。だが、秩序再建を請負った側は、次は勢力の維持のためにもその秩序のわくを少しずつ縮めてくる。

 そうなると、まずは息がつまってくる。次いで人々は、秩序は確立しても生括状態が悪化しつつあるのに気づいてくる。自由とは発想の自由でもあるので、その欠如は経済活動にまで及んでくるからだ。

 この状態がエスカレートすると革命になるから、自由と秩序の間でバランスを取ることは、社会の健全さを保つうえで重要極わまりない「知恵《なのである。

 わが日本は、今のところにしろ条件ならば整っている。だから、後はそれを活用する知恵を働かせるだけ。

 日本の次に私が愛するイタリアでは、日本が持っている三つのメリットのすべてがない。

 失業率は、全体では十パーセントを越え、若年層では四十パーセント。そのうえ地中海をはさんだ北アフリカからは、昨年一年間だけでも二十万人もの難民が押し寄せてくる。

 こうなると、革命までは行かなくても、政治上安は確実は起る。政権与党である民主党は、改革を強調する前首相のレンツィ派と、戦前のファシズム時代のトラウマから、強いリーダーを見るやアレルギ一を起こしてしまう反改革派に分裂し、その外側では、何であろうが既存体制の破壊を叫ぷ、五ツ星運動のリーダー・グリッロの、トランプも顔負けの怒声がひびきわたるだけ。

「持てるカ《と言っても、個々別々に秀でているだけでは社会全体の機能向上には役立たない。イタリア人も、個々ならば、日本の同僚たちにも負けない能力の持主である。それが、政治の上安定、高い失業率。押し寄せてくる難民、という悪条件に邪魔されて、充分に発揮できないでいるのが現状だ。

 イタリアだけを例にしたが、「良き状態《には決してないということでは、他の先進国も大同小異の状態にある。

 ごれらの国に比べれば、日本は相当恵まれているのだ。二度と負けないための「知恵《ぐらい、考えられないことはないでしょう。  (二月二十三日記)