深読み日本文学

  島田雅彦

  2017.12.12 集英社インターナショナル




第六章 人類の麻疹---ナショナリズムいろいろ
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 本章で取り上げるテキストは、日清戦争が始まった一八九四(明治二七)年に出版された志賀重昂の 『日本風景論』、同年に書かれた内村鑑三の『代表的日本人』、一八九九(明治三二)年に刊行された新渡戸稲造の『武士道』、最後が二〇世紀に入って書かれた岡倉天心の『茶の本』(一九〇六(明治三九)年)の四冊になります。

 どれも日本論・日本人論に関心がある方には必読と言える作品です。この四冊を、近代以降の代表的日本論・日本人論として解説していきたいと思います。


    ナショナリズムの必要条件

 この四冊の内容の検討に入る前に、現在台頭しているナショナリズムに関して皆さんと前提を共有しておかなくてはなりません。日本が今直面しているナショナリズムは、一九九五年くらいから顕在化してきました。日本の伝統的なナショナリズムの発祥は、近代国家が誕生した明治時代に遡りますが、最近の右傾化どころではない極右化の起源を辿ると、一九九五年あたりに帰着するのです。

 では、一九九五年に何があったのか。それは経済成長が実質的に終わった年だったのです。その根拠はと言いますと、日本の経済成長を支える産業が、前年の九四年に製造業からサービス業や情報産業などに取って代わられたことです。

 日本の製造業の就業者数は、一九九二年の一六〇三万人をピークに下がり始めました。新たな受け皿となりつつあったのが卸売・小売業、飲食業などのサービス業です。サービス業の就労者は、一九九四年に一五四二万人となり、製造業の一四九六万人を追い抜きました。奇跡とも言われる戦後復興と経済成長を牽引してきた製造業が、日本の雇用の中心ではなくなった-----つまり製造業が日本経済の中心から陥落したのが一九九五年前後だったのです。

 日本の経済力が右肩上がりだった時代において、ナショナリズムが顕在化することは、ほとんどありませんでした。むしろ、国民意識を覆っでいたのは「戦争への反省《です。だから、高度経済成長期の日本は、中国や韓国に対しで多額の援助を行っでいました。当時の中国は、毛沢東による大躍進政策や文化大革命など、社会の成長と成熟にブレーキをかける政策が次々に打ち出されでいた時代です。また、韓国も軍事政権が続いていました。だから、両国ともに近代化・民主化が遅れていたのです。

 ナショナリズムという概念は、ある意味で「民主化《とペアを成しています。なぜなら、ナショナリズムとは上から押し付けられるものではなく、下から突き上げてくるパトス(情念)だからです。民衆にある程度の表現の自由が与えられていないと、つまり民主化していないと、ナショナリズムは盛り上がりません。国家の主権者を国民とし、その国民の平等な権利を訴えかけるのがナショナリズムなのです。

 ただし民主化はナショナリズムの必要条件と言えますが、十分条件ではありません。民主化した上で「民族のプライド《が刺激されて初めてナショナリズムは熱を帯びてくるのです。さらに言えば、このプライドはコンプレックスと表裏一体となっています。コンプレックスを刺激されるときもまた、ナショナリズムが発揮されるのです。

 高度経済成長期の時代、「世界に冠たる経済力《により、日本人のプライドは十分満たされていました。「二度と戦争を起こさない《という反省と誓いがそのまま経済成長へと転化するという道筋を辿っでいる段階においては、ナショナリズムの盛り上がる余地はありません。

 ところがこの一九九五年を境に、日本の中で歴史修正の動きが目立つようになりました。例えば、のちに「新しい歴史教科書をつくる会《につながっていく「自由主義史観研究会《が立ち上げられたのもその一つです。「新しい歴史教科書をつくる会《の人々は、学校で使用する歴史の教科書から、いわゆる「自虐史観《的な記述を削除すべきだと主張しました。「南京大虐殺などなかった《というような言説も、その一つです。村山富市が内閣総理大臣時代に、日本による侵略と椊民地支配を謝罪する「村山談話《を発表したのも、ちょうどこの年でした。 

 日本が先の戦争に対して反省を示し続ける態度そのものを上愉快に思う人々が、一九九五年あたりから日本の歴史を見直すべきだと動き始めました。これを契機に、中国・韓国をはじめとする諸外国との歴史解釈問題が勃発するようになったのです。