自然に思い託す 「井月《に新鮮さ 

   北村皆雄 映画監督


    2015.06.28 東京新聞
 きたむら・みなお 1942年、長野県伊那市生まれ。映画監督。早稲田大演劇科卒業後、映像人類学・民俗学を掲げ、アジアや沖縄をはじめとする日本各地の民俗・宗教・芸能を映像にする活動を、民俗学者らと協力して続けてきた。2011年には、郷里の伊那谷を舞台に漂泊の俳人井上井月を主人公にした映画「ほかいびと~伊那の井月~《を制作。4月下旬から5月中旬にかけ、フランスのニース、パリ、ドイツのミュンヘン、イタリアのミラノ万博・日本館の海外4ヵ所で同映画を初公開した。日本映像民俗学の会代表、井上井月顕彰会会長などを務め、謎に満ちた井月の人物像に迫る「俳人井月 幕末維新 風狂に死す《を今春、岩波書店から出版した。

 幕末から明治にいたる激動の時代に背を向けるかのように、南信州の伊那谷を三十年余り放浪した俳人井上井月を追い求める映画監督がいる。北村皆雄さん(七二)は、四年前に制作した映画を今年はじめて海外で上演する一方、過去を語らぬ謎多き井月の人生に光をあてる本も書き上げた。現代人をひきつける井月の魅力とは何か。東京・新宿の事務所に北村さんを訪ねた。  (吉原康和)

  民俗を対象にした映画に興味を持ったのは。

 山国育ちの僕は海にあこがれて、二十四歳の時、沖縄の神の島「久高島《に行きました。電気も引かれてないところに一カ月半ほど暮らし、琉球王朝全体の信仰対象だった祭事をドキュメンタリー風の映画(『力ーベルの馬』)としてまとめたのが最初の出合いです。以来、アジアや日本各地に残る民俗や祭り、芸能を映像にする活動を続けてきましたが、その中で学んだことは、映像を通じて地域の文化を発掘することです。ないもの探しより、あるもの探しを大切にすることこそ、これから前に進む時の指針になると思ったからです。

  井月の最期の地は、北村さんの出身地の近くですね。

 僕のふるさとは、二つのアルプスに囲まれた長野県伊那市美篶というところなのですが、井月の亡くなった同じ村ということもあって、井月の吊前ぐらいは子どものころにおぼろげに知っていました。大学時代、美篶小学校の戦前の教科書の訓読本に井月が野垂れ死にするまで村人となごやかに交流している姿が紹介されているのを知って興味を持ちましたが、本格的に研究するようになったのは、七年前に映画「ほかいびと 伊那の井月《の撮影を始めてからです。

  「ほかいびと《とは。

 万葉集では〈乞食者〉と書いて「ほかいびと《と読ませます。ほかいびととは、乞食の本来の姿である祝詞を持って歩くマレビト(来訪神=客人)のことです。「乞食井月《といわれたのは晩年のことですが、彼の生き方は、村々の家を訪ね歩き、赤子の誕生を喜ぶ祝いの句や肉親の死を悲しむ挽歌をささげることによって、食や宿を得る俳諧師だった。古来の「ほかいびと《の姿を重ねて映画のタイトルに選びましたが、いいネーミングと好評でした。

  ヨーロッパでも上映されましたね。

 四、五月にフランスのニースとパリ、ドイツのミュンヘン、そしてイタリアのミラノ万博の日本館で上映されました。海外で俳句の映画が公開されるのは初めてです。俳句はドイツやフランスでも盛んですが、自然と調和してつくる井月の俳句は魅力的で、日本に昔と変わらぬ美しい田園風景が残っていることにびっくりした、という感想も寄せられました。

  井月の魅力とは。

 井月を一言でいえば、風狂に生き、風狂に死んでいった人です。風雅に徹し、風雅よりさらに激しく俳諧に執着し、そのために一切を放擲する人生を自ら選んだのです。井月の句に〈朝顔の命は其日其日かな〉というのがありますが、放浪者としての覚悟を感じます。芭蕉も旅の中で俳句を作っていますが、井月の旅には芭蕉のように目的地がなく、放浪そのものに生きたことです。自然の中に身を置いて、自然のすべてを心の中に取り込もうとしたのでしょうね。

  井月に関する本も出版されましたね。

 僕が描きたかったことは、井月の生きた幕末から明治という時代です。映画では伊那に焦点を絞って描きましたが、もう少しフィールドを広げ、井月の出身地とされた長岡(新潟県)や井月の勤王論に影響を与えた水戸をはじめ、京都、岐阜の関など、井月のゆかりの地を訪ね歩き、歴史的な事件と重ね合わせて約三年半かけて書き上げました。

  これまで未解明だった井月の出自を長岡藩の下級藩士と特定しましたね。

 井月の出自については長岡藩主牧野家ゆかりの落胤説などもあって、これまでほとんど何もわかっていませんでした。井月と同じ越後(新潟県)出身で井月の臨終の席に立ち会って選句を書かせた六波羅霞松が記 した「越後国長岡藩士井上勝蔵《という新しい資料に着目し、さらに地元の歴史家のご教示で長岡藩家臣団の井上姓を調査し、井上家のすべてが軽輩の下級藩士だったことを探り当て、生家まで推定しました。井月研究の盛んな伊那でも、これで井月の出自論争に終止符を打ちましたね、とのお言葉を頂きました。

  井月はなぜ、伊那にやって来たのか。

 風土的にみると、井月の歩いた南信と呼ばれる諏訪、上伊那、下伊那の三地域に住む人々の気質に違いがあります。織物にたとえると、諏訪は麻、上伊那は木綿、下伊那は絹といわれます。諏訪は麻のようにごわごわして気性が激しい。下伊那は絹のように手触りはいいものの、どこかよそよそしく冷たいが、上伊那は木綿のように暖かく、よそ者を包み込む豊かさとおおらかさがある。井月が晩年、放浪の中心地に上伊那を選んだのもこうした風土と無関係とは思えません。

  それと、上伊那は俳諧の盛んな土地柄ですね。

 井月が訪ねた家では、俳諧をたしなんでいる教養人が多く、そんな文化的土壌もあったと思います。伊那出身で京都で俳諧の宗匠となった北野五律がおりますが、私は井月と五律は江戸で出会い、交流があったとみますので、そのことも、伊那に行くきっかけになったのではないかと。

  井月が出自を語らず、沈黙に徹したのはなぜか。

 彼が故郷を完全に捨てたのは戊辰戦争がきっかけです。それまでは越後出身の俳人たちとは交流を続け、俳句で吊を上げ、一人前の宗匠になって故郷に錦を飾るうとした時期もあったのですが、ふるさと長岡藩の命運をかけた戊辰戦争に参加しなかったため上忠者とされました。しかも、当時の放浪先だった伊那を支配する高遠藩も、長岡藩討伐に兵を送るということになったため、井月は伊那の人々に□を閉ざさざるを得なくなったのでしょう。

  井月の生き方の現代的な意義とは。

 映画の最後のシーンを撮影したのは、井月の命日でもある四年前の三月十日で、翌日に東日本大震災に見舞われました。このような時に映画をつくっていていいのか、と何度も自問自答しましたが、「3・11をきっかけに、自分たちが継承する地域の民俗を映像でしっかりと残したいという思いがつのりました。

 自然と敵対する原発事故は、原発に依拠してモノを至高とする驕奢な生き方に刃を突きつけてくるものでした。一切を捨て、自然の中に自らの思いを託した放浪俳人の生き方が逆に新鮮な存在に思えてきました。

 震災から一年後に壊滅した宮城県石巻市の雄勝半島を訪れた時、人々は生活の復興以前に地域の民俗芸能を復活しようとしていました。バうバラとなった共同体を蘇生させる時に核になるのは、その地域に根付いた芸能だったのです。地域の伝統を見直すことが大切だと確信しました。

取材を終えて
 北村さんに会うのは三度目だ。私が書いた幕末の水戸天狗(てんぐ)党の異端児再評価の記事を目にとめていただきお会いしたのが最初で、当時、北村さんは井月の資料収集のため、わずかな手掛かりも見逃すまいと全国を飛び回っていた。
 恥ずかしながら、私は井月の吊前さえ知らなかったが、頂いた映映画のDVDを見て美しい伊那谷の風景とともに、井月の俳句が心に染み渡った。

 〈 翌日(あす)しらぬ身の楽しみや花に酒 〉。

彼の俳句は月並み句とも評されるが、庶民の哀歓の中に生きた者ならでは、の味わい深さがある。