ポール・ラッシュ博士が愛したもの

  
     Cocochi L 16号
     2016.05.05 入手



来年、生誕120年を迎えるポール・ラッシュ博士。
博士が清里に地に遺したものは数多く、語られた言葉も多く残されています。
それは、いまでも人々の心の中に息づいています。
あの有吊な「Do your best and it must be first class《(最善を尽くせそして一流であれ)という言葉も受け取る人の立場や環境によって変化していきます。今回、お話を伺ったポール・ラッシュ記念館のスタッフの方がおっしゃった「人ぞれぞれのポール・ラッシュ博士《をテーマに、ポール・ラッシュ博士が生涯を通じて愛したものをご紹介します。







 ポール・ラッシュ博士が清里の地にたどり着いたのは、教え子である甲府の老舗旅館談露館を経営する中沢富次郎の父親からの助言がきっかけだと言われている。当時、博士は、日本BSAのサマーキャンプを他の団体の施設を利用して行っていたが、施設を持つ団体の行事が優先するため、日本BSAの計画通りに使用することができないという問題にぶつかっていた。甲府から1時間30分ほどの距離にあった清里。列車でその地を目指したポール・ラッシュ博士一行は、朝霧の中から姿を現した山々を見て、「ここだ!《と即座に思ったという。

 清泉寮の完成は、ポール・ラッシュ博士が清里の地を初めて見てから5年後の1938(昭和13)年のことだった。博士が、清里の地で若者に問い続けたものは、「HOPE(希望)《という思い。その言葉は、博士が日本で成し遂げた「食糧・保健・信仰・青年への希望《の4大事業につながっている。

 農業学校を設立し、若者たちに自分たちの農業と畜産について学ばせた。清里の地は標高1,100~1,400メートルの間に広がる高原の地。昭和初期から、山梨県が開拓事業を開始し、北都留郡小菅村、丹波山村から多くの開拓者が入椊していた。岩だらけの土地に低温という悪条件の中、開拓は困難を極めていた。人の手では難しい土地での開拓の助けになったのが、米国産のトラクター、ジョンディア。人々は、「救いがやってきた《といい、喜んだと言われている。
      
当時の首相、吉田茂と親交が深かったポール・ラッシュ博士は、首相と頻繁に、手紙のやり取りをしていた。その中で清里の地での先駆的な活動は、日本の農村の生活水準の向上と食糧増産に大いに貢献していると称えられると共に、ロックフェラーやフオードといった米国の財閥や篤志家たちは惜しみなく協力を申し出た。その中の一つが、清里の人々の救いになった巨大なトラクターだったのだ。

 博士が生涯愛したものは、間違いなく「清里の地《であった。「あなた方に必要な食料を、あなた方の土地で作れることがわかりましたね。この地方の山々にこそ日本の希望があるのです《という言葉が、清里の地の未来につながっていた。そして、その地から見える富士山。子ども達の笑顔。多くの愛するものに囲まれて過ごした清里の地での日々の中には、さまざな表情のポール・ラッシュ博士の写真が残されている。