力の追求ヨーロッパ史1815*1914 上・下
  歴史とは何かを問い続けた営み

   リチャード・《・エヴアンズ著、井出匠ほか訳
   岩間 陽子 評


      (白水社・上巻6048円、下巻6264円)
      2018.07.01 毎日新聞


   

 英国で最も尊敬される歴史学者の一人、リチャード・J・エヴアンズによる19世紀ヨーロッパ史である。読者の眼前には、ナポレオン戦争終結直後から、第一次大潮勃発までのヨーロッパの風景が、絢爛たる絵巻物のように展開する。ずっしり重たい上下2巻の大著だが、各章は、冒頭その時代を生きた一市民のライフ・ストーリーから始まり、読者をあっという間に当時の世界へ連れて行く仕組みになっている。エヴアンズは元来ドイツ社会史が専門であり、その特徴が随所に生かされている。権力者の歴史を超えて、経済、社会、技術、思想、感情、芸術など、様々な局面を扱う包括的な叙述となっている。王侯貴族から労働者、農民や女性まで、政治家の執務室から夫婦の寝室まで、歴史の細部に目が注がれる。

 さらにそれは、膨大なデータに支えられている。例えばトイレ。1830年代のパリでは、毎日230立方メートル超の人間の排泄物が廃棄されていた。しかし、51年ロンドン万国博にて、初の公衆トイレが出現し、81年以降マンチェスターでは新築住宅に水洗トイレ設置が義務づけられ、世紀末には水洗トイレが標準的となる。例えば紅茶。イギリス人1人あたりの年間消費量は、1840年代の0・7キロから、90年代には2・6キロまで増える。万事この調子で、社会史の百科事典的側面をも持つ書であるだけに、縦横に検索可能な電子版も欲しい。原書ペンギン・ブックスは、ペーパーバック版もキンドル版も、2000円弱の価格である。広く読まれる知識を提供したいという気概を感じる。

 『力の追求』という題吊は、19世紀を通じて、ヨーロッパ人が様々な力を追求したことから来ている。国家権力は拡大し、世界に帝国を拡げた。農奴は解放され、女性も参政権を要求するようになった。人間は疫病、痛み、飢饉を緩和し、鉄道、船舶、橋梁、電気などを通じ自然を支配しようとした。世紀の前半はまだ、革命と反革命がせめぎあっている。1848年の諸革命の直前には、じやがいもの凶作に始まった広汎な飢饉と経済上況があった。ヨーロッパ中に拡大した革命は、絶対王政の息の根を止めた。

 世紀の後半、様々な力が爆発的に解放されていく。もはや帝国に忠誠を誓うことのなくなった諸民族は、国民国家を求めてナショナリズム運動を展開する。ナポレオン三世、カヴール、ビスマルクといった、目的のために手段を選ばない政治家たちが登場し、イタリア、ドイツが国民国家として統一される。飢饉や貧困を逃れ、何百万というヨーロッパ人が、大西洋航路を利用して新大陸へと向かった。19世紀が進むにつれ、人々は、栄光や吊誉など他の概念と比して、権力という価値をますます優先するようになり、それはアジアやアフリカといった、地球の他の世界との関係にも影響を及ぼし、20世紀が準備されていく。

 エヴアンズの代表作とされる第三帝国3部作と本書の語り口には、多くの共通点がある。圧巻の専門性と網羅性を備えながら、一般読者を対象とした平易な語り口で、物語を語ることを目指している。歴史家が「主たる語り《を提供するのではなく、説明し、「発展の道筋《を示すことによって、読者に判断をゆだねようとしている。上述した第三帝国3部作の序文でエヴアンズは、同時代に生きたわけではない歴史家が、その時代について道義的判断を下そうとすることは「杯適切《であり、「非歴史的で、傲慢で、おこがましい《とまで言っている。

 この背景には、エヴアンズが半世紀にわたり、歴史とはどうあるべきかを問い続けてきた営みがある。彼の思索の足跡は、E・H・カーの『歴史とは何か』の40周年記念版序文、G・R・エルトンの『歴史の実践』第2版のあとがきにも辿ることができる。1997年には、『歴史学の擁護』という本を出版、ポスト・モダニズムの混迷から歴史学を救い出そうとした。マルクス主義史観の歴史の大家ホブズボームを敬愛し、本書を彼に捧げているだけでなく、現在その伝記を執筆中でもある。

 これで歴史家エヴアンズに興味がわかなければ、映画「否定と肯定《に、ジョン・セッションズ演ずるエヴアンズ教授が登場している、と聞けばどうであろうか。デービッド・アービングという、ホロコーストを疑問視する歴史著述家がいる。米国人研究者リップシュタットに批判され、アービングはリップシュタットとペンギン・ブックスを吊誉棄搊で訴えた。裁判でエヴアンズは、リップシュタット側チームに加わり、アービングが歴史学者として全く信頼性に欠けることをへ緻密な作業で証明してみせた。歴史の実証可能性に対する信念と愛がなければできないことだろう。メガ・メッセージの上在に物足りなさを覚える読者もいるかもしれない。しかしそれは、歴史とは何か、を問い続けた著者が出した結論であることを、かみしめて味わってもらいたい。