Publisher's Review

   「ピープル《とEU離脱 

    プレイディみかこ


     みすず書房の本棚N0.20 2016秋



 「ピープル《という言葉を聞いて誰もがまず思いつくのは「人々《「民衆《といった和訳だろう。しかし、英国の「ピープル《は違う。それは歴史的に「労働者階級《のことだった。終戦の年一九四五年にチャーチルが総選挙でまさかの惨敗を期し、クレメント・アトリー率いる労働党政権が誕生した時のことは、ケン・ローチのドキュメンタリー『The Spirit of 45』に詳しい。それは「ピープルの革命《と呼ばれたし、「ゆりかごから墓場まで《の福祉制度を作りだしたアトリー政権は「ピープルの政府《と呼ばれた。

 だが、労働者階級が「ピープル《と呼ばれなくなって久しい。英国の書店では本書の隣に並んでいることの多いオーウエン・ジョーンズの『Chavs』が指摘しているように、今世紀の労働者階級は、「アンダークラス《「社会の厄介者《というイメージでとらえられてきた。しかし前世紀を振り返れば、労働者階級は社会のアウトサイダーどころか、一九五〇年代には人口の七五パーセントを占め、一九九〇年代だって人口の半分以上だった。二〇世紀の英国を語るとき、労働者階級を無視することは人口の大多数を無視することだ。彼らが自らの権利に覚醒した一九一〇年代から第二次世界大戦にかけて、政治家たちは労働者階級を「アンダークラス《ではなく「ピープル《と呼んでいた。少数の支配者階級とは違う、市井の人々はみんな「ピープル《だった。一九五〇年代から一九六〇年代になると、労働者階級のティーンたちは英国のポップカルチャーの主役にさえなった。富裕層のティーンたちはまだ大学に通っていたが、労働者階級の若者はすでに働き、可処分所得を持っていた。彼らはロックンロールのレコードやスクーターを買い、流行の朊に身を包んでダンスホールに通って、ストリートファッションを生み出す。

 「一九四五年の人民のスピリット《で誕生した労働党政権は、大学授業料を無料にするなどして「ピープル《の子供たちが大学進学することを可能にした。「スウインギン・ロンドン《の原動力は、労働者階級の若者たちが、芸術、苦楽、メディア、ファッションなどの分野に進出できるようになったことだと言われている。七〇年代後半に登場したパンク・ムーヴメントでも、セックス・ピストルズは労働者階級のヤバさを発散してミドルクラスの若者たちを魅了したが、ミドルクラス出身のクラッシュのジョー・ストラマーは生涯その刻印を背負って生きたという説もある。いまとなっては隔世の感があるが、クールであるためには労働者階級出身でなくてはならない時代があったのだ。

 今年六月のEU離脱投票での離脱派の勝利は、「労働者階級の反乱《と言われた。海外メディアの多くは、「英国の下層に広がった醜い排外主義の現れ《と報道していたが、それはずいぶんと単純に決めつけた、一方的論調だったと思う。英国民の半分以上がレイシストなら、そもそも英国はいまのような多民族国家にはなっていないだろう。

 国内では、EU離脱を「一九四五年以来のピープルの革命《と評した論客たちもいた。グローバル主義は一部の大企業と支配者階級のためにのみ機能し、雇用主と政治家は移民労働者を安価で搾取可能な賃金奴隷にし、「ピープル《は「アンダークラス《に落ち、緊縮財政で餓死者まで出るようになった時代だ。二〇世紀はじめ以降のどの時代と比べても格差が大きくなったこの時代に、一九一一年にロンドンから全国規模に広がったストライキのようにエスタブリッシュメントたちを震撼させる出来事(=EU離脱)が起きたのは偶然ではない。EU離脱騒動から約二カ月が過ぎ、ようやく冷静になった識者たちは、いま重要なのは、労働者階級を愚かな排外主義者とバッシングするのではなく、「富の分配《について考えることだと語り始めた。あのホーキング博士までもが新聞に経済政策の重要性を説く今日このごろだ。

 近年の左派の多くは、難民問題や相次ぐテロ事件のせいで民族や国家といったアイデンティティの問題にばかり目を向け、その裏で淫らなまでに広がり続ける格差と貧困の問題を軽視してきた。それは、いまやアンダークラスと呼ばれ社会のアウトサイダーにされた労働者階級の衰退と間違いなくリンクしているだろう。

 EU離脱は「偽物の労働者階級の反乱《と言う識者もいた。なぜなら、それを率いたのはボリス・ジョンソンやマイケル・ゴーヴのような保守党の超エリートや、右翼政党UKIPの元党首ナイジェル・ファラージだったからだ。しかし、これらのリーダーたちはEU離脱が決定すると次々に姿を消した。「本当に離脱になってしまったので、自分たちが騙した下層民を残してパニックして逃げ出した《とメディアは囁し立てたが、英国の「ピープル《は実のところエリートたちの逃亡に動じていない。

 ギャンブル好きの労働者階級の人々はEU離脱に賭けた。そして「富の分配《が為政者たちの口に久しぶりにのぼるようになった。それがこれからどう進むかはわからないが、賽は投げられたのである。

 こうして英国労働者階級の歴史は二一世紀も紡がれ続けて行くのだ。

   (保育士・作家、英国在住)