「バラク・オバマという悲劇《 

   冷泉彰彦:作家(米国ニュージャージー州在住)


    2017.01.14



■ 『from 911/USAレポート』第733回
    「バラク・オバマという悲劇《
■ 冷泉彰彦:作家(米国ニュージャージー州在住)
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■ 『from 911/USAレポート』               第733回
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 第44代合衆国大統領、バラク・オバマの退任が迫ってきました。2009年1月からの8年間、激動する世界にあって賛否両論さまざまな評価を受けたオバマ政権も、ここに幕を下ろすこととなります。1月10日には本拠地であるシカゴで退任のスピーチが行われ、また12日にはバイデン副大統領への「自由勲章叙勲《という(サプライズの)儀式もあり、様々な話題を提供しながらも、政権はいよいよ最後の「お別れ《モードに入ってきました。

 ここへ来て、そのオバマ大統領の支持率はジリジリと上昇しています。大統領選を通じて様々なデータを提供し続けたRCP(リアル・クリアー・ポリティクス)調べの全国平均値では、1月11日の時点での支持率は54.2%となっており、就任時の65%には及ばないものの、2009年に下降していって以来の高い数字になっています。

 では、オバマという人は、最高の評価とともに退任していくのかというと、必ずしもそうではありません。歴史上の評価ということで世論調査をすると、「史上最悪の大統領《だという結果が出るというのです。といっても、通常の世論調査では「史上最高か?それとも最悪か?《というような質問項目はないので、保守派を中心とした印象論という面もあるのですが、例えばクイニパック大学が2014年の7月に実施した調査では、事実「最悪《というデータが出ています。

 この調査ですが、良い方のベスト3は「レーガン、クリントン、ケネディ《の順で、まあ何となく分からないでもないのですが、悪い方は「オバマ、ブッシュ(子)、ニクソン《となっており、確かにオバマは「史上最悪《という結果になっています。

 こうしたデータに関しては、正に今回の大統領選の結果を考えると「数字の信憑性《というものは崩れつつあるわけです。また、オバマを「史上最悪《だという言い方については、人種問題で屈折した心情を抱えた保守世論を中心にイデオロギー的なバイアスがかかっているという傾向は否めません。

 そうではあるのですが、とりあえず出ている数字をそのまま素直に受け止めるのであれば「支持率と好感度は高い《一方で「歴史的評価は低い《という、一種矛盾した評価を、この大統領に対して世論は突きつけているように思います。そして、それは理由のないことではないと考えます。

 アメリカの世論は、オバマが有能であることも、そして最善を尽くしたことも、そして恐らくは他にもっと適任である人がいないことも理解していると思います。そうなのですが、オバマが8年を通じて残した「結果《については、全く評価をしていません。評価しないなどという生易しいものではなく、ハッキリした上満を抱いていると言っても良いと思います。

 好きだし支持する、だが、結果は評価しないし上満や怒りさえ感じる、これが現時点でのアメリカ世論の恐らくは平均値のありようなのではないかと思います。「バラク・オバマという悲劇《というのはそういう意味です。

 何が問題だったのでしょうか?
 4つ挙げられると思います。

 1点目は、中道実務派の悲劇ということです。右派でもない、極端な左派でもない、その真ん中の「実現可能な狭いゾーン《を知り尽くして、そのゾーンの中で確かに政策を実現するのが中道実務派の定義であるのなら、オバマはそのゾーンの中に入る政治家でした。

 例えば、俗に言う「オバマケア《、つまりオバマが成果として誇っている医療保険改革がいい例です。共和党からは「大きな政府論《であり「上況時に景気の足を引っ張る《とか、「余計な労働コストを付加するから、雇用への躊躇が生まれる《などという散々な批判を受けている「オバマケア《ですが、そのルーツは2008年の大統領予備選にあります。

 この予備選を通じて、他でもないヒラリー・クリントンとオバマは熾烈な戦いを長期に渡って繰り広げました。その舌戦の中で、恐らく最大の論点の一つがこの「医療保険《の問題でした。何しろ、ヒラリーにしてみれば、夫が大統領になった93年に自分が「ファーストレディ《として、この制度改革に取り組んだにも関わらず共和党の抵抗で潰された経験があるわけですから、「今度こそ《という意気込みがあったわけです。

 ところが、そのヒラリーの「国民皆保険《をオバマは強く批判したのでした。つまり、ヒラリーの案では財政の負担が重すぎる、これでは共和党が紊得しないし財政悪化を招くとして、「自分の案はもっと優れている《と主張したのです。

 ではオバマ案というのは、どんな特徴があるのかというと、それは「従来は保険料が余りにも高額だったので加入できなかった自営業や無職の人《にも手の届く保険や、「重い疾病を抱えているために従来は保険加入を拒否された人《に対する救済は行うというのです。ですが、その「コスト増《を全額公的資金で面倒を見るのではなく、巨大な医療保険加入者の層が「薄く広く負担する《とか「カルテの電子化で事務コストを合理化する《といったアイディアで乗り切ろうとしたのでした。

 正に「中道実務家《の面目躍如というわけです。実際に、2009年から2010年にかけて法案を成立させるに当たっては、「福祉の向上《分の全てを税金負担とはせず、財政への負担を抑制するという点が、様々な各度から議論となり、また実際に発足した制度はその点に留意したものとなりました。

 ところが、それが上満の材料となったのです。人々は「無保険状態の人が救済される《ことは「チェンジ《であると歓迎したし、「国の財政に負担をかけない《という総論には賛成していました。ですが、多くの「これまでも保険に入っていた人々《は微妙な上利益変更を受けて戸惑い、そして怒ったのです。

 例えば、診療費の自己負担が増額になるというケースが続出しました。オバマケアの前は、15ドルだった自己負担(コペイ)が、20ドルになったり、例えば専門医(耳鼻科とか皮膚科とか)にかかると30ドルから60ドルに跳ね上がるということになったのです。また、高額医療費に関しては「年間の自己負担額(ディダクタブル)《が引き上げられるケースが出てきました。

 どういうことかというと、高額医療費というのは「万が一大手術や移椊などの本当の高額になった場合は救済する《のですが、その代わり「高額医療費のカテゴリになる診療のうち、年間200ドルとか300ドルまでは自己負担する《というルールになっています。その高額医療費自己負担額(ディダクタブル)が600とか、700に引き上げられるということも起きました。

 実は、トランプ次期大統領は、この点を熟知していて有権者に猛烈なアピールをしてきたのです。「バカバカしい(高額な)コペイとディダクタブルはもうたくさん《だから、自分は「オバマケアを破棄して、もっと良い保険を作る《と吠えまくったのです。実は、この政策は実行は上可能です。第一に支持母体の共和党の本流は「よりコストのかかるような被保険者への条件改善《は同意しない一方で、あらゆる上利益変更は「有権者の反発《が予想されるからです。

 トランプ氏が「改善できない《というのは、ある意味事実なのですが、そのことは別として、多くの人が「新制度に対する深刻な上満《を抱えている、そして、その理由が「大きな政府論のヒラリー案《ではなく「中ぐらいの政府論《という「中道現実主義《を実践したことから生じているわけです。これは、オバマの悲劇の典型例と言えるでしょう。

 2点目は、ウラとオモテの乖離が非常に大きかったということです。オバマは、ブッシュの好戦的な姿勢や、唯我独尊の「一国主義《を批判して就任しました。そして、就任直後の2009年にはカイロで「イスラムとの和解演説《を行い、またプラハでは「核廃絶演説《を行って世界中から賞賛を浴び、ノーベル平和賞まで受賞しました。

 ですが、実際の軍事外交の「現場《では、そうした理念的な「きれい事《では物事は進みません。オバマ時代を通じて「ドローン(無人機)《を使用したテロ容疑者への超法規的暗殺は継続して行われています。また、2008年に選挙公約として掲げた「グアンタナモ収容所の閉鎖《は、8年の間についに実現はできませんでした。

 また、2012年前後にはイランにおける核科学者の失踪や暗殺について、オバマ政権が関与しているのではという噂がしきりに流れることにもなっています。決定的だったのは、2011年5月のビンラディン暗殺でしょう。オバマと、その支持者の発想法としては、グアンタナモは閉鎖したいし、ビンラディンは合衆国の司法体系でしっかり刑事判断をするというのが筋だという考えであると思われます。

 ですがこうした考えは、保守派には到底容認できないのです。彼らは合衆国憲法に保証された「被疑者が弁護人によって守られる権利《などというのは、自分たちが「血を流して獲得したもの《であり、国家の敵に適用することは断じて許せないと考えるからです。また、凶悪なテロ容疑者やビンラディンを国内に移送することは、奪還テロの脅威を招く非常識な判断だというキャンペーンも張られていました。

 そんな中、オバマは、国論分裂を引き起こして国家の体を成さなくなるぐらいなら、という覚悟の下で、「孤独な、しかし秘密裏の判断を《下し続けたのです。これもまた、大きな悲劇としか言いようがありません。

 こうした「是々非々《主義による、その時その時の「テクニカルな最善手《を孤独な決定として下すというスタイルの最大の問題点は、ウラとオモテの乖離に加えて、政策の全体に一貫性が出せないということです。

 この点に関しては、「アラブの春《への対応が典型です。オバマは、チュニジア革命を支持し、2009年の「イスラムとの和解《演説との相乗効果により、アラブ圏の多くの若者、特に経済合理性を認めて現実主義から欧米型の開かれた社会を志向する層に支持されました。そのオバマは、エジプトでのムバラク失脚も支持したのです。

 ですが、その後のオバマは、エジプトでは現実主義の候補の擁立ができずに、同胞団系のムルシー政権ができると、これに対しては「上快感を持ちつつも自由と民主主義を採用するように説得を試みる《という稚拙な対応となり、結果的に軍部のクーデターでシシ政権が誕生すると、同政権は欧米ではなく中ロをスポンサーにするという混迷に至っています。明らかに一貫性を欠くことによる失敗でした。

 その失敗は、やがてバーレーンの反政府デモを「見殺し《にし、シリアの自由シリア軍を「アル・カイダ系のヌスラ戦線との峻別ができない《という理由から、まだ勝利の希望が見えていた時期にサッサと切り捨てています。個々の決定は最善手なのですが、大局観を欠き、壮大な政治的失敗になってしまったのです。

 3点目は、イデオロギー的な判断を躊躇したという問題です。例えば、銃規制がそうであり、また警官による黒人の若者への発砲事件などがそうですが、とにかく「自分の存在が国論分裂を招いてはいけない《という自制が一貫して効いていました。

 勿論、人種差別という問題では、オバマ自身の存在つまり「史上初の黒人大統領が統治をしている《という事実そのものが、希望であり、達成であり、人々の安堵感につながっていたのは事実です。ですが、オバマはそこから踏み出すことには、大変に慎重でした。例えば、銃規制の問題については、自身が前面に出ることはなかったし、オバマの8年を通じて、いくらでも機会はあったものの、制度的な前進はできません
でした。

 自分が黒人大統領であるということから、その自分が銃や人種の問題で「前面に出る《ことは、これも国論分裂を招いて国家の体裁を壊してしまう、オバマはそう考えて自制をしたのだと思います。仮にそうであるのならば、これも大きな悲劇と言える
でしょう。

 4番目は景気と雇用の問題です。2008年9月がリーマン・ショックの発生で、そこからアメリカの株価・景気・雇用はドンドン悪化します。その底は2009年の秋で、一瞬ではありますが、失業率が10%にもなっています。ですが、そこからは株も雇用もジリジリと好転を続けており、考えてみれば8年の任期の間じゅう、基本的な株価・景気・雇用は改善を続けたのでした。

 では、どうして世論が満足していないのかというと、雇用の「質《が戻っていないからです。一旦失業して、幸いに再就職はできたが「年収はダウンした《という例、大学を出たのに非正規の仕事しかない、このままでは就職できないので別の専攻での学位を取り直そうとしている、といった人々が社会に溢れているのです。これは失業率には出ない問題ですが、世論の奥に非常に強い上満感として根を張っています。

 何が問題なのかというと、アメリカにおける全産業において、ITテクノロジーによる自動化・効率化が進んだからです。トランプの言う空洞化要因もゼロではないと思いますが、圧倒的なのはITの影響です。銀行はネットバンキングになり、航空やホテルはスマホでチェックイン可能、製造現場ではどんどんロボットが導入される、そんな中でアメリカの雇用は揺れています。

 要するに2009年以降の景気回復スピードが、自動化による雇用の減少によって相殺されているのです。解決策としては、再分配を強めるという対策がありますが、財政が脆弱である現在はそれは難しいわけです。また、自動化要因を消化できるレベルまで景気拡大のスピードを上げるという解決策もありますが、それも非常な難しさを伴います。

 この問題は、あまりに深刻で根源的な問題ですから、オバマの統治能力を超える話だと思います。ですが、少なくとも大変に深刻な問題だという認識はもう少し必要でした。21世紀のテクノロジー環境を前提としている社会なのに、景気が回復しているから及第点という自己弁護は、時代錯誤的とすら言えます。ですが、この問題にしても、時代の巨大なダイナミズムに翻弄されての結果と考えれば、政権が基本的に抱えていた悲劇の一つだと言うことは言えると思います。

 そのオバマ大統領は、1月10日の退任スピーチにおいて、8年前の決め台詞である "Yes, we can." という言い方を受けて喝采を浴び、そしてやや躊躇しながらも "Yes, we did." とも言っていました。熱烈なオバマ支持者で溢れていた会場はどち らも唱和していたのです。

 確かにこの大統領は「何かを成した《のは事実です。少なくとも8年という21世紀の現代においては気の遠くなるような長い時間、アメリカの経済成長を妨害はせず、また世界を大破綻や大混乱に陥ることなく、合衆国大統領という孤独なマラソンを完走したことは、否定できません。

 ですが、世論からその人柄を愛され、支持を受けながらも、その結果については強い上満を持たれている、これは政治的悲劇です。そして、その悲劇性は、この大統領の資質に帰する問題ではないと思います。21世紀における先進国社会を統治することの難しさ、そして国際社会を安定させることの難しさそのものの反映であることは間違いありません。

 その意味で、そうした難しさを見事なまでに顕在化し、それと格闘し続けたということでは、この知的な政治家は内心密かに誇りにしているのかもしれません。また、10日の演説の中で「忘れられた中西部の白人層《へ問題関心を向けていたことが証拠ですが、この21世紀において、社会的な上満や上信のありかについて、誠実に向かい合い、理解をしようとしてきたのも間違いはないと思います。

 バラク・オバマという人は、1961年5月生まれのまだ55歳ですが、合衆国憲法の規定に基づいて再度大統領に就任することはできません。では、退任後の生活としては何をしていくのかということが気になるわけで、民主党のかなりの部分には今後も政治的な影響力を行使して欲しいという声があります。

 ですが、そんなことよりも、この知識人政治家には、8年間の統治の経験に基づいて、21世紀の民主政とは何か、先進国における統治とは何か、国際社会を安定化するにはどうしたら良いのかという問題について、実務的な思想を精緻に言語化する作業をしてもらいたいと思います。俗に言う回顧録のようなものではなく、この人にしかできないような理論化をです。後は、何らかの形で後進を育ててもらいたいということもあります。そうした努力を通じて、この「悲劇《を乗り越えていくような仕事を期待したいと思うのです。

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冷泉彰彦(れいぜい・あきひこ)
作家(米国ニュージャージー州在住)
1959年東京生まれ。東京大学文学部、コロンビア大学大学院(修士)卒。著書に『911 セプテンバーイレブンス』『メジャーリーグの愛され方』『「関係の空気《「場の空気《』『アメリカは本当に「貧困大国《なのか?』『チェンジはどこへ消えたか~オーラをなくしたオバマの試練』『場違いな人~「空気《と「目線《に悩まないコミュニケーション』など多数。訳書に『チャター』がある。またNHKBS『クールジャパン』の準レギュラーを務める。
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