おまけの章
そもそも憲法ってどうやってできたん? 

『日本国憲法 大阪おばちゃん語訳』

   谷口 真由美



あ、おばちゃん、肝心なこと言うの忘れとったわ!
じつはいまの憲法ができるきっかけはポツダム宣言にまでさかのぼりますねんで。
「アメリカの押しつけや!]って言わはる方もいてはりますけど、ホンマはどないなんでっしゃろな?

    そもそも憲法ってどうやってできたん?

 いまの日本国憲法っていうのは、世界的に見ても実は珍しいできかたをしてますねん。その前の大日本帝国憲法の「改正《っていうことでできてますねん。まったく内容が違うモンが、「改正《っていうのはちょっとけったいですさかいに、このなりたちは「特殊や《っていわれてますねん。
 よその国で、君主とか独裁とかなくて市民の手によって憲法がつくられたときっていうのは、市民革命ってのがありましてんわ。日本にはそもそも市民革命がおこってない状態で、第二次世界大戦後、占領軍総司令部(GHQ)の顔色をうかがって作り出されたことはその通りですな。そのときの政府も国民も、憲法っていうのは何や、何で必要やねんということをちゃんと理解せーヘんままにできあがつてしもたっちゆ
うのは否定できまへん。せやさかいに、「押し付け憲法や《っていうお人らも出てくるんですけど、まあ話はそないに単純なことでもおまへんねんね。せやけど、いまの憲法は「押し付けや!《と言い切る人がいてますねんけど、ちゃんと憲法の成立史よみはったんやろか? と上思議になりますねん。その時代でも、民間の「憲法研究会案《なんかが出してきた憲法草案とか、その他の民間の憲法の案なんかも、いまの憲法つくるときに参照されたって明らかになってますねん。
 GHQ、、つまりアメリカさんから一方的に押し付けられたんやったら、アメリカ色がもっと強いはずでしょ? 当時、アメリカはもう、ソ連と東西冷戦状態に入ってましたから、民主主義や! というアメリカさんと、社会主義のソ連さんは仲悪かったわけですわ。せやさかい、いわゆる社会権っていわれるやつは、社会主義の考え方から出てきてる権利でもあるわけですから、25条なんかに書いてる生活保護なんかはア
メリカさんとしては自分らからは出してきはらへん権利やったんですわ。それが、日本国憲法の審議をする帝国議会で日本の議員が提案して入ったっちゆうわけです。
 ほんで、誰が誰に押し付けたかを明らかにするってことに重きをおきすぎて、つまり一種の犯人さがしを一生懸命してるお人らもいてはりますねんけど、もうね、もはや戦後70年近くこの憲法で来てて、まったく日本になじんでへんねんやったらそれこそ国民の意思でとっくに改正もしてたんちやうん? って思いまへんやろか? 改正の機会はずっとあったわけですし、朝鮮戦争の特に警察予備隊(ぃまの自衛隊)をつくるときには、そのGHQから「憲法改正してえーで《って言われてたわけですさかいなあ。何でも都合のええとこだけ切り取って断定したらあきまへんわな。

    ポツダム宣言にさかのぼって見てみましょ

 もうちょっと話しますとな、なんでそもそも日本で憲法つくるのにGHQとか出てくるねんっていう話、これも誰でも知ってると思ったら大間違いで、知らん人もいてますねんで。第二次世界大戦のとき、日本はドイツとイタリアと組んで日独伊三国同盟っちゅうのを組んで枢軸国ともいわれてましてんけど、戦争してた相手はアメリカとかの連合国ですわ。そうそう、連合国ってUnited Nationsって書きますねんけど、いまこの言葉は日本語では国際連合(国連)っていいますな。そうですねん、国連っちゅうのは、連合国がつくったモンなんてすわ。せやさかい、その連合国の中心メンバーが、国連安全保障理事会の常任理事国っちゅうて、拒否権もってる国ですな。アメリカ、ロシア(旧ソ連)、イギリス、フランス、中国(旧中華民国)、ですわ。ちなみにまだ、国連憲章には旧敵国条項っちゅうのがあって、連合国の昔の敵である日本はまだ旧敵国のままですねん。これは、日本とかドイツとかイタリアとかが、よそさんの国を侵略するような行動したり、国際秩序の現状を破壊するんちやう? って思われたら、国連に入ってる国々は安保理すっとばして独自の軍事行動を旧敵国に対してとれますねん。
 1945年(昭和20年)、3月には大阪でも東京でも大空襲があって、6月にはひめゆりの塔で知られる沖縄での悲劇があり、7月26日には連合国から日本の降伏条件を書いたポツダム宣言っちゆうのが発表されましてん。このポツダム宣言は、大日本帝国憲法を否定する内容でしてんわ。ポツダム宣言も、戦後の日本を考えたり、日本国憲法をちやんとよむ上で大事なモンですから、よかったらまた調べて読んでもらった
らとおもいます。例えばポツダム宣言の10項は民主主義と基本的人権が大事やで、12項は平和的な政府つくって責任ある政治してやって書いてますねん。それを受けて13項は、「もしこのポツダム宣言受けいれへんかったら、いますぐに徹底的に叩き潰すで《って書いてますねん。これ、脅しと違いましてん。歴史に「もし《っちゆう話はないですけど、ちやっちやとポツダム宣言を受け入れてたら広島(8月6日)と長崎(8月9日)に原爆が落とされることはなかったですし、シベリア抑留(8月8日にソ連が参戦)もなかったですわな。
 ほな、なんでちやっちやと受け入れへんかったかっていうたら、「国体の護持《ですわ。国体いうても国民体育大会やおまへんで。そのときの国体っちゆうたら、大日本帝国憲法のもとで主権者で、なおかつ神さんやった天皇さんのことですわ。せやから、降伏したら当時は現入神っていうてた、この世に姿をあらわしてはる神さんである天皇さんはどないなるんやろ?ってそのときの政府のお人らがオロオロしはったんですな。国民がどうなるかやなくて、天皇さんが怖い目にあえへんやろかとオロオロしはったことは間違いないんですわ。

 せやさかい、いまに続く天皇制を廃止したほうがええっていうお人らのなかには、戦争が天皇さんの吊前ではじまったこと、はよポツダム宣言受けてくれてはったら、なくさんでええ命もいっぱいあったのに、というようなことがあったりしますねんわ。軍部の反対を押し切って、天皇さんに近い中枢部が8月14目にポツダム宣言を受けることを決めましてん。15日の終戦の時の玉音放送で天皇さんが「朕はついに国体を護持しえた《って言うてはることからも、まだ国体の護持は大事やってんなぁってわかりますわ。

    日本の作った草案はこんなんでしてん

 そのあとに、日本は17日に東久邇宮内閣っちゅうのが誕生しまして、政府は「一億総懺悔論《ってことで、みーんなが悪かってんと戦争責任はあいまいにしてしもたんですわ。ほんで、28日にはあらためて「国体の護持は皇国の最後の一線《やっちゅうて、大日本帝国憲法を改正するなんて必要ないやろって思てましてん。ところがそのあと、戦前に政治犯やっちゅうて逮捕されてた三本清さんっていうお人が、戦争終わったのに牢屋から出してもらえることなく、牢屋の中で亡くなりはりましてん。それを外国の記者さんがスクープしはりましてな、おいおい、日本政府ポツダム宣言守ってへんがなってバレましてん。ほんでさすがにGHQ最高司令官のマツカーサーさんが、GHQ指令っちゅうのを出して、オマエらちやんとポツダム宣言守らんかい! 治安維持法廃止せー、政治犯すぐに釈放せー、特高警察廃止せーって命じたわ
けですわ。ほんで、東久邇宮内閣はみんなやめはりましてん。

 それからいうたら、マツカーサーさんは日本政府に大日本帝国憲法改正するようにいうなんて、政府のなかに憲法問題調査委員会っちゆうのができて、委員長に松本烝治さんがならはりましてんわ。まあせやけど、マッカーサーさんに言われたものの、なんとなくのらりくらりとしてたんですけど、国内外からちやっちやと動かんかいなって言われてようやく12月になって松本四原則っていわれるのを帝国議会に出しなんですわ。まあしかし、これは天皇さんの扱いは神さんではないけど、大日本帝国憲法の扱いと同じやったり、ほとんど変更ありませんでしてん。ほかの委員会もできたりして、いろんな草案がでてきましてんけど、一連の動きを1946年の2月1日に毎日新聞がすっぱ抜きましてん。天皇さんの扱い、大日本帝国憲法とホンマに変更ありませんでしてんわ。国民もびっくりしましたけど、マッカーサーさんも椅子からひっくり返ったんちやいますかね。

    ほんで、民生局案がもとになりましてんわ

 こらアカンわってことで、その日のうちにホイットニーさんいう民政局長よびだして、日本側のつくる憲法草案ナメとんのかって言うて来いってなったわけですわ。この頃、ちょうど連合国の中では、日本に対して強硬論が相次いでいて、マッカーサーさんも焦ったんですなあ。ほんで2月3日にマッカーサー三原則っちゆうのを出して、ホイットニーさんが二十数吊の民政局員集めて、新憲法草案を内密に進めだしたんですな。このなかに、通訳もしてはって女性の権利を書いたベアテ・シロタさんがいてはったことも有吊な話ですねん。

 この民政局がつくった案をマッカーサーさんも承認して、日本側にわたしたのは2月13目のことですねん。ここには、いまの日本国憲法のもとになるようなことが書かれてて、とくに天皇さんに関しては元首としつつもいまの憲法に書いてあるようなことが書いてましてんわ。これを日本側、吉田茂さんが外務大臣、松本烝治さんが国務大臣、ほんでちょっと前にドラマにもなった白洲次郎さんが終戦連絡事務局の参与として受け取りましてん。ホイットニーさんは、命令やのうて勧告やから日本は強制はされへんで、とは言いはったみたいですけど、日本側からしたら「革命的要求《やってことでたぶん顎もはずれそうになってたでしょうし、ともかくビックリして閣議にもようださんかったんですわ。まあ、ともかくその後もうにゃうにゃあるんですけどちょっと省いて、日本側はGHQ案に従うことに決めたんですわ。

 そのあと、3月4日から、GHQ側と日本側で徹夜でGHQ案の検討をやったんですけど、松本さんは天皇さんのところで激論になって頭にきて途中で出ていかはりましてん。せやから、最後までGHQとの折衝にあたりはったんは、法制局第一部長の佐藤達夫さんだけですねん。気の毒な話ですわな。で、ともかくもうモタモタしてる時間はなかったんで、3月6日に公表して、準備作業はおわりましてん。最後は、帝国議会の議論を経て、11月3日に日本国憲法が公布されて、実際に使われだしたんは1947年の5月3日ですわ。

 「押し付け《かどうかを話す前に、何でそもそも自分らで作れっていわれた憲法が受け入れられへんかったかってこと考えなあきまへんわな。大日本帝国憲法のもとで戦争して、日本は負けましてん。民主主義がちゃんとできるような憲法つくれっていわれて、大日本帝国憲法と変わらへんモンを出し続けてたら、そらアカンっていわれますわな。