昭和天皇・マッカーサー会見 

   豊下楢彦


      2008.07.16岩波現代文庫

戦後史の謎であり続けた全一一回の極秘会談。二人が何 を話したのか、その核心部分が、著者が解読した膨大な 未解明の新資料によって初めて明らかにされた。両者の 会談のみならず米国に対する昭和天皇の外交を精緻に描 き出した本書は、戦後レジーム形成に天皇が極めて能動 的に関与した衝撃の事実を描き出し、従来の昭和天皇像、 戦後史観を根底から覆す。

目次
第一章 「昭和天皇・マッカーサー会見《の歴史的位置………………1
第二章 昭和天皇と「東条非難《………………………………………63
第三章 「松井文書《の会見記録を読み解く …………………………87
第四章 戦後体制の形成と昭和天皇…………………………………133
     イタリア占領と昭和天皇 133
     極東委員会設置の背景 141
     『安保条約の成立』をめぐって 148
     「天皇外交《の展開 159
     「松井文書《と会見記録 176
     昭和天皇の憲法認識 196
     昭和天皇と「靖国問題《 221
     東京裁判に謝意 231
     東京裁判と安保体制 226
     「天皇なき靖国神社《229
     天皇の意に反した戦争 231

     昭和天皇の”遺産” 236
 以上のように問題のありかを検討したことを踏まえつつ、ここで改めて、昭和の時代を引き継いだ現在の明仁天皇の立ち位置を考えてみよう。まず彼が一九八九年の即位の礼において述べた「お言葉《を振り返ってみたい。そこで明仁天皇は、「常に国民の幸福を願いつつ、日本国憲法を遵守し、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓い、国民の叡智とたゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします《と国民に語りかけた。

 自ら「憲法の子《と任ずると言われるように、「日本国憲法の遵守《を明確に掲げたところがきわめて印象的であるが、その前提として、明仁天皇の言動には、悲惨な戦争の過去への痛切な反省の気持ちを見ることができる。かつて、八月六日(広島原爆忌)、八月九日(長崎原爆忌)、八月一五目(終戦の日)に加えて、「沖縄慰霊の日《である六月二二日をも忘られることのできない日付《と遂べたことがあったが、現に天皇一家は毎年六月二二日に祈りを捧げていると言われる。明仁天皇にとって沖縄は、父親の戦争責任とのかかわりにおいて、文字通り”贖罪の島”と看倣されているのであろう。翻って、およそ本土において、どれだけの政治家が「沖縄慰霊の日《に同様の祈りを捧げているであろうか。

 ところで、明仁天皇にあっては戦争への反省は決して”内向き”のものではなく、例えば一九九〇年五月に韓国の盧泰愚大統領が来日した際には、「我が国によってもたらされたこの上幸な時期に、貴国の人々が味わわれた苦しみを思い、私は痛惜の念を禁じえません《と語った。さらに九二年一〇月に中国を訪問した時には、「我が国が中国国民に対し多大の苦難を与えた上幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります《と、踏み込んだ「お言葉《を読み上げた。

 また天皇は、靖国神社への参拝は全く行わない一方で、「慰霊の旅《として各地の激戦地に赴いて戦没者への慰霊を続けている。しかも、例えば二〇〇五年六月に訪れたサイパン島では、韓国人戦没者の「追悼平和搭《をも訪ねて黙祷を捧げた。こうした。アジアに開かれた゜とも言うべき姿勢は、皇室の伝統に関する次のような認識をも背景として生み出されているのであろう。

 大きな話題となったように、明仁天皇は二〇〇一年一二月二三日の誕生日に先立つ記者会見で、「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続目本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています《と述べたのである。つまり、「皇統二千六百年《を誇る日本の皇室には朝鮮半島の血が脈々と流れていることを再確認し、それに「ゆかり《を感じていることを公言したのである。

 憲法をひたすら遵守し、戦争の過去を痛切に反省し、「アジアの中の日本《を何よりも重視し、さらには「国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄斗する《ことを切望する明仁天皇の基本的立場は、戦後の日本が歩むべき道であったばかりではなく、今後の日本が進むべき方向性をも示す文字通りの「象徴《であり、皮肉な表現を使うならば、昭和天皇が残した”最も重要な遺産”と言うべきではなかろうか。