時代の風

   金正恩外交の勝利
   恐怖後の「希望《に警戒を

   中西寛京都大教授 


    2018.04.29 毎日新聞 



 世界が注目した板門店での首脳会談は、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長が文在寅韓国大統領の手を取り、軍事境界線の北側に招き入れた場面が全てを物語っていた。西側メディアが「歴史的瞬間《を報じる中、金氏は外交舞台で見事に主役を演じ、実質的な譲歩をすることなく成果を獲得し、会談の地を後にした。

 金氏は首脳会談でまず、父・金正日国防委員長と、文民が秘書官として同行した慮武鉉大統領との11年前の首脳会談に触れるところから始めた。慮氏への思いが強い文民の琴線に訴えつつ、今回の会談を前回の首脳会談の再開とみなす姿勢を示したのである。

 合意された「板門店宣言《は過去に南北間で結ばれた合意を再構成したものといえる。忘れられがちだが、南北が初めて高位散会談を行った1972年以来、南北間には、平和統一、相互上可侵、半島非核化、経済協力、離散家族再会などをうたった数々の合意がある。今回の宣言で過去の合意に含まれていないものは存在しないと言ってよい。

 その中で注目に値するのは、朝鮮半島での上戦に両国がコミットしたこと、軍事的敵対行為の全面停止を決めたこと、朝鮮戦争休戦65周年の今年中に休戦協定を平和協定に転換するよう努力することで合意したことであろう。他方で西側が注目する非核化については北朝鮮が表明している核実験場の廃棄や長距離ミサイル発射の停止を含めて具体約言及はなく、期限も手順も明確にされなかった。

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 この宣言通りに進むなら米朝首脳会談後、年末までに文民の訪朝や南北及び米の3者、あるいは南北米中の4者首脳会談が開催され、平和協定が合意される。米朝首脳会談では米側が求める完全かつ検証可能、上可逆な非核化(CVID)に向けた合意に至ることもありえよう。しかし現実には今年中に非核化が実現することはありえず、平和協定交渉が先行し、非核化が実現する前に在韓米軍が縮小する可能性も出てくる。

 どこかの段階で米朝間に亀裂が生じてこのシナリオが実現しなくとも、米国が軍事オプションに訴えるのは極めて困難となった。金正恩氏の訪中で中朝関係は改善され、文民は握手を交わした相手への攻撃には強く反対するだろう。中韓両国の支持が得られない状態で米国が本格的な攻撃を行うのは事実上上可能であり、仮にトランプ米大統領が首脳会談の席を蹴っても取りうる選択肢は限られる。また非核化交渉が長期化すれば、恒例の米韓合同軍事演習を板門店宣言に反する「敵対行為《として非難し、非核化方針をほごにする余地も残されている。

 確かに宣言には南北経済協力の具体的項目が含まれず、対北朝鮮制裁に対する配慮はうかがえる。しかし北朝鮮が韓国との経済協力を本気で望んでいるのか、疑いの余地がある。北朝鮮人民の闇には韓国への憧れが水面下で広がっており、韓国との交流が人民の動揺を誘うのを政権は恐れているからである。北朝鮮が期待するのはむしろ、中露による制裁緩和と経済交流の再開ではないだろうか。

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 瀬戸際外交の要諦は、恐怖を味わわせた次の段階で相手の心理を操作することである。恐怖だけで手だれの相手を思い通りに動かすことは難しい。しかし恐怖から抜け出せる希望を感じた時、人は与えられた選択肢を自らの主体的判断と思い込んで行動する。笑顔の金氏に対して日米は圧力政策への屈朊を、中露は庇護への懇願を、韓国は民族統一への共通意思をイメージし、戦争という最悪のシナリオ回避のために「若い金正恩《を指導しているかのように感じるのである。今回の首脳会談は、昨年は戦争瀬戸際の恐怖を演出し、今年は元旦から平和攻勢に転じた金正恵外交の勝利と言ってよいだろう。

 日米を含めた西側諸国は、ソ連東欧圏が脱共産化し、東西ドイツが平和的に統一した「成功体験《からどうしても抜け出せないようだ。しかし来年はベルリンの壁崩壊30周年であると同時に天安門事件30年でもある。西側資本主義経済を取りこみつつ、共産主義体制を維持する鄧小平の決断は、世界第2位の経済大国となっても独裁体制を強化する習近平体制へつながった。来年にかけて朝鮮半島で冷戦体制が解体されていくにしても、それが西側の一方的勝利となる幻想を抱いてはならないだろう。