早期帰還めざし線量の見直しを

   中西 準子 環境リスク学者


      2015.08.23 東京新聞

 東京電力福島第一原発事故から四年半が過ぎたが、汚染地域の住民のほとんどが帰還のめどが立っていない。環境リスク学のパイオニア、産業技術総合研究所(茨城県)吊誉フエローの中西準子さん(七七)は、手詰まり状態を打開するため、除染・帰還のための新たな放射線量目標値を提言している。被災者にリスクを許容させる内容として批判もある中、その真意を聞いた。   (林勝)

 ----- なぜ除染と帰還の目標に、国が長期に目指すとしている放射線追加被ばく線量の年一ミリシーベルトより高い、年五ミリシーベルトを提案したのですか。

 私は、原発事故の被災者一人一人が今後の人生を決めていくことを念頭に考えました。現状では判断材料が乏しい。簡単に除染できないことが既に分かっているので、一ミリシーベルトを帰還の目標にすると、ほとんどの人がいつ帰れるのか分からないのです。
 だから、被災者の人生の大切な時間が奪われないよう、なるべく早く帰れるような条件と根拠を探りました。学業や就職など人生の一区切りを十五年とし、帰還後に十五年間住んでも積算で一〇〇ミリシーベルトを超えず、その間に自然減で年一ミリシーベルトになるという条件を設定しました。一〇〇ミリシーベルト以下というのは、広島、長崎の被爆者の追跡調査から、被ばくでがんの患者が明確に増えるか分からないとされている値です。
 一方、現実的な除染を考えると、年五ミリシーベルトなら数年内の目標として可能です。この値なら、自然減を加味すると十五年間の積算線量は一〇〇ミリシーベルトを大きく下回ります。このリスクは、私たちが日常的にさらされている化学物質のリスクと比べても大きくありません。



 ----- でも、落ち度のない被災者に、一定のリスクを受け入れろということになりませんか。

 除染の目標を徹底的に下げれば、放射能のリスクが下がるから良いように思えますが、逆に、いつまでたっても帰れません。
 その間に被災者の生活や人生設計が破壊されるリスクも考えないと。一つのリスクを無理に減らすと、別のリスクが大きくなる。これをリスクトレードオフといいます。
 水道水の塩素消毒では発がん性物質ができますが、感染症を防ぐために、そのリスクを私たちは受け入れています。大気中の発がん性物質も環境基準として一定程度認められているのは、自動車や産業活動を止めるわけにはいかないから。互いにバランスをとっていきましょうという考え方です。
 ただし、被災者にリスクの許容を求めるだけではだめだと思います。それぞれ考え方や生活の条件が違うので、避難生活を余儀なくされたすべての人に、公的支援による移住の選択肢をつくることが必要です。

 ----- 提案への反響は。

 国や行政は政治的な問題から何も言えないようです。市民団体は「リスクを許容させるなんてけしからん《と。ある専門家は「非常に有害《と批判してきました。これに対し、私は「除染を徹底するほど被災者は帰れなくなりますが、それはどう考えていますか《と問いかけましたが、返事が来ません。別の側面を考える習慣がないのでしょう。
 一方で「この線量以下ならリスクはない《「放射線は自然にもある《などの無責任な専門家の発言も気になります。ある専門家は「一〇〇ミリシーベルト以下は考え方ですよ《って講演していますが、これが現実を変えていくための答えになりますか。じゃあ、どう考えたらいいのって普通の人は混乱します。
 誰だってリスクを受け入れる決断は嫌。その嫌なことを人々になぜ考えてもらわなければならないかを、専門家は粘り強く説明し続けなければなりません。専門家は、その使命を負っているんです。ちょっと御用学者と言われただけで発言が止まるなんて、弱いなあと思います。あれだけの事故があったのだから、専門家は覚悟を決めて人々と向き合うべきです。

     *****

 ----- 経済成長時に環境問題に取り組まれてきました。

 工場の汚水による公害問題を扱ったら「おまえは日本の産業をつぶす気か《と怒られたり、「国立大にこんな教官がいていいのかね《と嫌がらせをされたり。でも、きちんとしたデータやファクト(事実)を示すと、企業や行政は対応せざるを得なくなります。
 一九七三年に愛知県刈谷市の流域下水道計画について相談を受け、水資源の利用に深く関わるようになりました。流域下水道は生活や産業で利用した水を河川に戻さず、大規模処理場でまとめて処理して海に流します。そうすると水の循環が妨げられ、川の水がなくなってしまう。そこで処理した水を川に戻す下水道を提案し、ここから家庭用合併処理浄化槽の普及にもつながっていきました。
 でも、流域によっては、自分の考えに矛盾があることに気が付きました。飲料水として取水する地域では、どうしても一定の汚れが入る。これを塩素消毒すると発がん性物質ができてしまう。当時、私もゼロリスクがいいと思っていましたが、塩素消毒をやめるために水を循環させないようにすると、結局、川の水がなくなってしまう。

 ----- 当時の環境運動は塩素消毒に批判的でした。

 ある程度のリスクを受け入れ、妥協していかないとしょうがない。市民団体からは激しい批判を受けました。でも、絶対反対だけでは物事は何も進まない。かといって、対立する問題にどうやって折り合いを付けるか、どこで妥協するかを決める科学がなかった。だから、化学物質のリスクを管理評価する研究に進んでいったのです。

     *****

 ----- 事実に基づく対案にこだわってきた人生ですね。

 自分たちのことを自分たちで決めるには、提案できる力がないといけない。単なる反対だけでは、自治も何もない。子どものころから、そんな思いが強くありました。
 中学一年のとき、社会科で憲法の講義がありました。そこで私は「戦争放棄《の説明を聞いて、自分の国を自分で守るのを放棄していいんですかと、誰が守るんですか、と先生に質問し、とても驚かれました。
 父の影響もあったかもしれません。父は戦時中、南満州鉄道調査部で仕事をし、「中国には戦う力がある。内陸部に抗戦力があるから戦争継続は無理だ《という報告書を出しました。そのために、外患罪や治安維持法‐違反に問われて逮捕、投獄されました。必ず対案を出すタイプで、戦後に政治家になっても信念を貫いていました。
 思想によって人の命や自由は簡単に奪われてしまいます。私たち家族は、戦争を通してそれを嫌というほど経験しました。だから、事実や根拠に基づいて物事を決めていかなくてはいけない。そんな考え方に、私はしがみついて生きてきました。
 どの主義主張にも属さずに、事実に基づく判断をするのは、意外に孤独な道です。でも、事実を積み重ねていけば、思想が違っていても歩み寄れる余地がいつかできる。このことを私は強く信じています。

 なかにし・じゅんこ 1938年、中国大連市生まれ。終戦直前に神奈川県藤沢市に移る。横浜国立大工学部を卒業後、東京大大学院博士課程を修了。当時、工学博士号を持つ女性を採用する企業はなく、就職に失敗。東大研究室の助手となり、水質汚染の調査研究に携わる。下水処理場の排水中の重金属や工場排水によるヘドロなどの実態を明らかにし、全国的な公害対策のきっかけに。化学物質のリスク評価、環境工学の基礎を築く。産業技術総合研究所化学物質リスク管理研究センター長などを歴任。現横浜国大吊誉教授。著書に「食のリスク学《「原発事故と放射線のリスク学《(日本評論社)、「リスクと向きあう《(中央公論新社)など。2013年、瑞宝重光章受章。

取材を終えて
 日本の自伝文学の最高峰とされる福沢論吉(一八三五~一九〇一年)の「福翁自伝《に次のようなくだりがある。〈ト箆(うらない)呪胆(まじない) 一切上信仰で、狐狸(こり)が付くというようなことは初めから馬鹿にして少しも信じない。子供ながらも精神は誠にカラリとしたものでした。
 中西さんは、まさに福沢のような独立自尊とカラリとした精神の持ち主だった。キャリアウーマン、リケジョ(理系女子)の先駆けでもある。
 その主張は過去、各方面から批判を浴びたが、気持ちが折れることはなかった。「政治的にならず、あまり上を狙わなかったことが良かったのかもね《



あなたに伝えたい’
思想によって人の命や自由は簡単に奪われてしまいます。だから、事実や根拠に基づいて物事を決めていかなくてはいけない。