妄信 いまこそ問い直せ

   伯父・火野葦平に向き合う 中村哲さん(アフガン支援の医師)


     土曜訪問 2015年09月19日(土)東京新聞
   

伯父・火野葦平に向き合う 中村哲さん(アフガン支援の医師)

 〈死にます。芥川龍之介とはちがふかも知れないが、或る漠然とした上安のために。すみません。おゆるし下さい。さやうなら〉

 この遺書を書いたのは、芥川賞作家の火野葦平。一九六〇年一月、自宅の書斎で睡眠薬を飲み、五十三歳で命を絶った。

 その火野葦平の甥っ子にあたるのが、アフガニスタンでの人道支援活動で国際的に高い評価を受けるペシャワール会現地代表の医師、中村哲さん(六九)だ。「葦平は戦争作家と呼ばれることを嫌った《と振り返る。自死した伯父への思い、集団的自衛権行使や安保法制で進路を変えようとしている日本をどう感じているか。今夏、一時帰国した中村さんに聞いた。

 紛争地アフガニスタンで三十年。ソ連の侵攻、「対テロ《吊目の米英軍による空爆、武装勢力の衝突・・・。中村さんにとって「戦争と平和《は、日々肌身で感じる現実そのものだ。難民や貧困層への医療活動だけでなく、二〇〇〇年からの大干ばつで飢餓状態となった住民を救うため井戸掘りや用水路建設事業を続ける。

 伯父である葦平は、陸軍の報道部員として日中戦争に従軍した。銃を担いで泥の中を歩いた記録を小説にしたのが『麦と兵隊』などの兵隊三部作。当時、大ベストセラーになった。「葦平は無口だが、えらそうなところは全然なかった。酒を飲むとユーモラスな好人物だった《という。ところがそんな豪気な楽天主義者の顔は外側だけで、繊細な心に戦争が暗い影を落としていた。  「米英撃滅と叫んでいた軍人が、今度は進駐軍相手のバーを開く。敗戦を境に、多くの日本人は器用に転身した。でも、葦平は十年以上悩み続けた。この世で何を信じればいいのか。そんな耐えがたさが『漠然とした上安』という遺書の登場になったのかもしれない《と中村さんは推し量る。

 葦平は戦後、戦時中の作品を、一字一句赤線を引いて直した。当時、軍部の検閲で書けなかった中国人捕虜を銃殺した場面も書き足した。血まみれの遺体の山で、まだ息のある兵士が撃ってくれと葦平にしぐさで訴えた。〈急いで、瀕死の支那兵の胸に照準を附けると、引鉄を引いた。支那兵は動かなくなった〉(『土と兵隊』)

 遺作『革命前後』では、自らの戦争責任を問うた。作品に登場する戦争作家は「あんたは戦地で文章書いて大もうけ《と、元兵士に批判される。「逆に言えば、戦後の日本人の多くは葦平のような徹底的な悩み方をしなかった《と中村さんは感じる。「大震災が起きたと思ったら、オリンピックで騒いでいる。帰国するたび、違う惑星に来たような気がする。日本人はみんなで動いて、その動きに乗れない人間をはじく《  戦闘が終わっても、心の傷は死ぬまで消えない。伯父の自死を見て、戦争が破壊するのは体だけではないと実感した。アフガンでも米兵や武装勢力、住民の別を問わず、人々が心を壊される過酷な現実を見た。

 だからこそ集団的自衛権行使や安保法制をめぐる国会論議の「ゲームのような軽さ《にがくぜんとする。

「日本を守ると連呼するが、現代の戦争はもはや国同士の戦いですらない。もっと複雑で汚くてあざとい《

 安保法制の根拠として、周辺国の脅威が盛んに語られることにも違和感を覚える。「武力行使が身を守ると信じるのは、妄信そのもの《と確信するからだ。運営する診療所がかつて襲撃されたとき、中村さんは「死んでも撃ち返すな《と仲間に言った。報復の連鎖を断ったことが、後々まで自分や仲間、事業を守った。安全保障とは地域住民との信頼関係にほかならない。

 そんな思いを、近著にこう書いた。

 〈利害を超え、忍耐を重ね、裏切られても裏切り返さない誠実さこそが、人々の心に触れる。それは、武力以上に強固な安全を提供してくれ、人々を動かすことができる〉

 〈私たちにとって平和とは理念ではなく、現実の力なのだ。私たちはいとも安易に戦争と平和を語りすぎる。武力行使によって守られるものとは何か、静かに思いをいたすべきかと思われる〉(『天、共に在り』)
                                    (出田回生)