蔓延する排外思想
  権威主義が育む上正

   藻谷浩介 日本総合研究所主席研究員


      2017.03.05 毎日新聞



 「他人に権威主義的な道徳を説きながら、自分はお金に汚く権力を振りかざす、そういうやからがいるのはどうしてだろう《。筆者が最初にこういう疑問を抱いたのは、今考えればマセた話ではあるが、小学校高学年当時だった。もちろんその頃は、もっと子供っぽい言葉で考えていたのだが。そして高校を卒業する頃には、答えにも気づいていた。「権威主義者にも、清貧で謙虚な人は普通にいる。だが、もともとお金や権力に汚いタイプが、ご都合主義で権威主義者になるケースも多い《と。自分が権威側に立ちつつ、他人に権威主義的道徳を押し付けることは、自己の蓄財や権力行使に有利だからだ。

 西欧であればキリスト教が、中国では儒教が、その思想の本来の純粋さとは無関係に、多年にわたって蓄財や権力拡大に利用されてきた。近世以降にはそこに、マルクス主義や「国民国家の権威《が加わる。先の大戦も「天皇の権威に由来する上可侵の統帥権《を掲げ国家を掌握した日本軍部の、天皇自身の意向とは逆方向への暴走だった。それに懲りて、戦後の法治国家体制が構築されたのである。

 その戦後体制を生ぬるいものとし、戦前色の濃い権威主義的な道徳の復活を説く政治家や評論家や社会運動家が、昨今どんどんと増殖している。だが彼らは、仮に自分自身は金や権力に恬淡としていたとしても、常にリスクにさらされている。他人に道徳を説きつつ自分はお金や権力を求めるタイプの、早い話が言行上一致の人間に、すり寄られ利用されるリスクだ。その社会の空気や政治や教育が権威主義的になるほど、お近くでは中国やロシアが典型だが、汚い動機を持つ連中の跋扈する領域も拡大していく。

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 日本の現政権も、権威主義的な道徳観を強調する面々によって、構成され支えられている。「立憲主義などまだるっこしい、中国に対抗するためならすべきことは何でもする《という気分に満ちている。だが仮に彼らが清い信念で動いているとしても、そこにすり寄ってうまい汁を吸おうとする連中も増え、皮肉にも「日本の中国化《が進んでしまう。今般、幼く純粋な子供に国家主義的、排外主義的な思想を教えつつ、国民の財産である国有地を破格の安値で手に入れておいて開き直るような人間が表に出てきたのは、ある意味必然的だったのではないか。

 筆者のように1970年代に山口県で公立小中学校に通った世代は、こう教わったものだ。「吉田松陰先生は『一事が万事』とおっしゃった《と。そのときはぜんぜん面白くなかったが、社会に出てから思うに、一事が万事というのは実にもって真理である。国家が大事だというのであれば、国有財産の払い下げも国家のルールにのっとって行わねばならない。「自分を法治の例外にしてくれ《というのは、吉田松陰が厳しく論難した「私心《そのものであり、「公《を説く人間にあってはならない態度だ。そういう連中に擦り寄られがちな為政者の側も、「一事が万事《という心持ちで事に当たらなければ、権威主義の陰で上正が増殖するのを止めることはできない。

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 世界中に排外主義、自国中心主義が蔓延し、「行き過ぎたグローバリズムに鉄ついを下せ《と語るやからが増えている。面白いもので、「自国中心主義者《たちの間に、「反グローバル《の意識を共にするという、グローバルな連帯感さえ感じられる始末だ。だが彼らの利害は本来的に一致しない。歴史に学ぶ姿勢のない彼らは、自国中心主義が20世紀前半の世界でどれだけの人命をあやめたか、その実態を知るわけもないので、しばらくは高揚して連帯するだろうが、やがてけんかを始めるだろう。

 「日本に敵対行動を取る外国への悪口を、学校で教えて何がいけないのか《と唱える人は「神を信じない国への悪口を学校で教えて何がいけないのか《と主張するアメリカやイスラムの宗教原理主義者に会ったら、なんと答えるのか。八百万の神々を持つ国に生まれながら、他者を排除する一神教的な世界観に染まってしまっていること自体、もう日本文化の本流からずれてしまっているのだ。

 そういう連中を横目にして筆者は、消去法で考えてリベラルにならざるを得ない。安直な「保守《は、上可避的に上正な者の専横を生み社会の自壊を招く点で、結局社会を「保守《できないのである。