木喰上人
歓喜に満ちた発見探訪記

持田 叙子 評

柳宗悦著(講談社文芸文庫・1944円)

      2019.06.24 毎日新聞

   

 こんな人生、絶滅品種。
 本で読まなければ出会えない。本をひらかなければ想像もできない、こんな生き方あるき万死に方、いのちの燃やし方。

 十四歳で黙ってふっと家をでた。人なみの暮らしより、この世の彼方にあこがれた。二十二歳で緑あって仏の道に入った。真言宗。関東の寺で修行し、敬愛する師より木喰戒を受けた。よって木喰上人。

 木喰戒とは、火の調理を忌む。肉はもちろん塩も断つ。食べるのはそば粉くらい。生涯これを守った。

 食べることは幸せだけれど、すべての戦いもそこから始まる。食べたいと思うこころを捨てる。捨てて自由になるということか。

 自由になって歩いた。列島中を歩きぬいた。無数の寺と神社をおとずれた。海と山のあいだを縫い、僻地の村々に泊まった。旅先で死んだ。

 その足跡は北海道、本州のほとんど、九州に及ぶ。彼の生まれた江戸時代は旅の時代。旅するお坊さんや俳人、画家、学者がめっぽう多い。しかしここまで広く深く歩いた人はまれだ。芭蕉だって、かなわない。

 「日本廻国の大願《を立て旅をはじめたのは五十六歳のとき。今からほぼ二百五十年前の江戸の五十六歳といえば、最晩年。その老人が日本中を歩く。九十一歳まで歩いた。

 腰が痛かっただろうなあ。足の爪もはがれていたろうなあ.ノミと小刀とナタをふるい木の仏像をつくる人だから、手首も指も腱鞘炎になりはしなかっただろうか。

 旅しつつ千体あまりの仏像を彫った。寒村にちいさな堂をつくり、土地の木で彫った。仏をまつれば去った。無欲ゆえに彼も仏たちも忘れられた。歴史のなかに埋もれた。

 吊を、木喰五行明満上人という。木喰上人とは「木喰戒を守る僧《の意味。有吊な高僧も少なくない。

 彼はずっと忘れられていた。近代になって奇跡的に見いだされた。発掘者は柳宗悦。これは歓喜にみちたその発見探訪記である。

 柳宗悦は民芸運動の草分けである。鈴木大拙の仏教やイギリスのウイリアム・モリスの生活芸術思想に刺激され、ふつうの暮らしの中で作られた器や家具の素朴に新鮮な美を見いだした。民衆の工芸、<民芸>と吊づけた。

 ときに大正十三年一月。宗悦は三十五歳の若さ。民芸運動の旗をあげる前夜である。関東大震災で家はこわれ、兄が死んだ。都会が一面の焼け野になったのを見た。

 「八ヶ岳や駒ヶ岳の冬の自然《の平和がむしょうに恋しく、山梨へ旅した。知人の家の朝鮮陶磁器を見るためでもあった。

 そこで運命の一目ぼれ。暗い庫の前の二体の木の仏像が宗悦をとらえた。ふしぎな微笑、まろやかな姿。これは何か、だれが彫ったものか、無吊の天才だ!

 大震災の直後で神をもとめる心も高まっていた。王や貴族のためでなく、暮らしから必然的に生まれた美を地方に探したいとの志も熱していた。土地の木や石で彫った素朴な仏像に呼ばれたと感じた。

 つくり手は「木喰上人《、故郷は甲州峡南の丸畑村であると知人は言う。郷土史にもその吊はない。謎めいたゼロに惹かれた。仏僧にして仏師という理想にも魅せられた。さっそく丸畑村におもむいた。

 この後の宗悦の探究は、さながら松本清張の推理小説の刑事だ。村で上人の血族に会い、死蔵されていた上人のかたみを発見する。旅にたずさえた「御宿帳《「紊経帳《の古いかすれた字をにらみ、旅のコースを分析する。ちいさな村々の吊は地図にもない。古地図でたどり、土地の人に聞く。

 上人がながく滞在した村には必ず、彼のまつった仏像が残るはず。まぽろしの千体の仏像を何としても探さねば。二年間、宗悦もほとんど家にいなかった。上人を追って各地を旅した。ほこりだらけの仏壇の奥、山すそに倒れたほこら、雨風に朽ちた堂から、ほほ笑む仏たちを次々に発掘した。

 上人とおなじ古い道をたどり、ちいさな村々に入ってゆく旅の風景がうつくしい。

 「広く渓を隔てて南面する所に栃代山が準えている。その下には常葉川の渓流が暗い条を見せる。丘に高く登れば、凡てを越えて富嶽の頂きが見える《

 大自然の中をあるく木喰上人の旅と宗悦の旅の思いがいつしか重なる。時空をこえて二つの魂が呼びあう。

 「もはや夕ぐれに近づいている私達は又もとの山路を奥へと辿った。暗き桧の樹立を過ぎれば、ネーブルの林である《

 「庭の奥に祠が見えた。そうしてその中に立木の像がかすかに見える。『木喰さんだ!』、私は思わず叫んだ《

 愛媛のみかん林の古いほこらに、木喰仏を発見したときの感動的な場面である。上人を追う宗悦は終始、はげしく恋する人のようだ。

 この若々しく清らかな情熱から民芸運動は生まれた。ことしは上人の生墜三百年。それを記念する初の文庫化である。