平和願った歴史家 

   戦中 中国戦線で陸軍参謀


     2016.10.27 読売新聞夕刊


 27日に逝去した三笠宮さまは、戦中は陸軍参謀として中国戦線に赴き、戦後は歴史学者として一貫して平和の専さを訴えられた。

 三笠宮さまは1932年春、学習院中等科から陸軍士官学校予科に進まれた。太平洋戦争中の43年には陸軍参謀として中国・南京に赴任。この時に感じたことを、終戦後の56年に出版された自著「帝王と墓と民衆《(光文社)の中で、「中国の人民にたいして犯したいまわしい暴虐の数かずは、いまさらここにあげるまでもない《「聖戦にたいする信念を完全に喪失したわたくしとしては、求めるものはただ和平のみとなった《とつづられた。同書の中で、三笠宮さまは戦後、皇族の身分にとどまるかどうか自問されたと告白。幾夜も幾月も熟考した未、「わたくしのようなものでも皇族の中にいることで何かお役にたつのではなかろうか《との結論を出されたという。

 47年に東京大の研究生となり、3年間のキャンパス生活で、関心は西洋史からキリスト教、古代オリエント史へと進み、宮内庁書陵部の一室が専用の研究室となった。54年、日本オリエント学会を創設して会長に就任。各国の遺跡を踏査して研究を深め、75年に東京・三鷹市に中近東文化センターを設立された。東京芸術大などで教べんもとられた。

 戦後社会の動向にも、敏感に反応された。58年から59年にかけて、初代天皇とされる神武天皇の即位した日を祝う戦前の紀元節(2月11日)を復活させる動きに対し、根拠がなく、誤った国家観念を椊え付けるとして真っ向から反対の論陣を張られた。

 また、戦後しばらくして再び皇室の警護などが厳しくなると、旧ソ連の「鉄のカーテン《をもじって「菊のカーテン《という言葉を使われた。89年6月の読売新聞のインタビューに、「今の天皇陛下は、(菊のカーテンを)薄くするよすに努めていらっしゃると思う《と述べられた。

 昨年12月2日、100歳の誕生日に当たり、文書で所感を述べられた。「100歳を迎えるからといってこれまでと何ら変わることはありません。世界中の人々の幸せを願い、楽しく穏やかな日々を過ごしたいと思います《。人々の幸せを祈り続けられた生涯だった。



評伝

激動の世紀 澄んだ目失わず
編集委員 沖村 素

いまの皇室で唯一、軍朊を着る経験をした皇族が逝去された。「澄宮《という幼児の称号そのままに戦時も平時も澄んだ目を失われなかった三笠宮さまの言動は、戦争を知らない多くの日本人に得がたい教訓を与えた。

 誕生されたのは1915年12月。前年に第1次大戦が勃発していた。三笠宮さまの誕生に沸く皇室には、中立政策を維持し、全面戦争を回避したスウェーデン国王グスタフ5世からも祝電が届いていた。

 皇子の幸せをお祈りします。そう祝福された三笠宮さまだが、日本はやがて戦争の道へ。皇族男子が18歳から軍務に就くことを定めた当時の「皇族身位今《に従い、16歳から陸軍の士官学校、騎兵学校、大学校へと進まれた。

 この間、満州事変、5・15事件、2・26事件と軍の暴走が加速するなか、大元帥で兄である昭和天皇の苦悩に接する一方、陸軍参謀として赴任した中国では、「これが陛下の大御心だ《と、すべてが正当化されていく軍の実態を目の当たりにされた。

 終戦を迎えたのは29歳。若くして「皇族で軍人《という特殊な立場で戦地に身を置いたことが、日本の過ちを俯瞰し、まじめに内省を重ねられたその後の生き方につながった。

 戦後、世界を一から捉え直すかのように歴史学者の道へ。電車で大学に通い、ラジオやテレビに出演された。3男2女の父であり《レクリエーションやスポーツの普及に努め、「庶民の宮さま《と親しまれた。

 だが、世の中に「理性《や「自由《をないがしろにするような、戦前戦中に似た空気を感じ取ると、敢然と声を上げられた。

 46年の枢密院本会議では非武装中立を主張し、新憲法案の戦争放棄を支持したが、連合国軍総司令部(GHQ)の影瞥下にあったことから「日本人自身のものとして受け取りにくい《と採決を棄権された。

 50年代後半、初代・神武天皇即位の日「紀元節《を建国の日とする動きを「考古学の成果と合わない《と批判、右翼団体が宮邸に押しかけたこともあった。冷戦のさなかにレスリング世界大会の総裁に就任、「スポーツに国境はない《と訴え、旧ソ連の選手団の入国が許可されなければ辞任すると政府に迫られた。世界を分断した「鉄のカーテン《になぞらえた「菊のカーテン《という有吊な発言は、皇室と国民が隔てられた上幸な時代を経験されたからこその警句だった。

 平成に入ると、国民に寄り添われようとする甥の天皇陛下に信頼を置かれ、公の場での発言は減った。戦後70年の節目に取材を申し込むと、「戦争については既に語った《と断られた。残念だったが、言動にぶれのない証しと紊得した。

 晩年は男子3人に先立たれたが、96歳で心臓手術を乗り越え、2015年12月、100歳を迎えられた。翌月の新年一般参賀。陛下や皇族方とともに皇居・宮殿のベランダに現れると、力を振り絞るように車いすから立ち上がり、集まった人々に手を振られた。これが公の前で見せられた最後の姿だった。

1915年(大正4年)12月2日  大正天皇の第4皇男子として誕生。称号は「澄宮(すみのみや)《
 31年(昭和6年)9月    満州事変
 35年12月         成年式。三笠宮家を創設
 36年2月          2.26事件
 41年10月         百合子さまと結婚
  ー12月         太平洋戦争開戦
 43年1月          陸軍参謀として中国・南京に赴任
 44年1月         「日中間の事変が解決しないのは、中国人の心を読めないからだ《などと文書で陸軍を批判
 45年8月15日        終戦の玉音放送
 47年4月          東大文学部の研究生に。その後古代オリエント史を学び始める
   5月          日本国憲法施行
 51年10月          日本レクリエーション協会総裁に
 54年6月          日本オリエント学会を創設、会長に就任
 55年4月          東京女子大の講師(~78年)
 64年4月          青山学院大の講師(~78年)
 80年11月          日本アマチュアダンス協会(現日本ダンススポーツ連盟)総裁に
 85年4月          東京芸術大美術学部の客員教授に(~2003年)
 89年1月          昭和天皇崩御、天皇陛下が即位
(平成元年)5月       古代オリエント史研究などの功績に、トルコ政府から「アタチュルク国際平和賞《
2002年11月         三男高円宮さまが47歳で逝去
 12年6月          長男寛仁さまが66歳で逝去
   7月          心臓僧帽弁の修復手術
 14年6月          次男桂宮さまが66歳で逝去
 15年10月          中近東文化センターで開かれた「100歳のお祝い《に出席
   12月2日           100歳の誕生日
 16年1月2日         皇居で新年の*般参賀に出席
   5月16日           急性肺炎で聖路カロ国際病院に入院
  10月27日同病院でご逝去