戦後皇室の歩み体現 三笠宮さまをしのぶ 

   皇室担当特別嘱託・岩井克己


     2016年10月28日05時00分 朝日新聞


 ぴしっと背筋の伸びた人という形容がふさわしい人だった。

 生前、様々な行事に出席した三笠宮崇仁(たかひと)さまは常に端然と背を伸ばし、いかにも陸軍で鍛え抜かれた剛毅(ごうき)なたたずまいだった。それでいて高圧的なところは全くなく、率直な語り口で「親しみやすいリベラルな大学教授《といった風情。歴史に向き合う真率な研究生活をうかがわせた。

 皇居へも自ら自動車のハンドルを握って乗り付け、護衛なしで宮内庁での用件や史料調べなどに歩き回った。宮内庁の廊下の曲がり角で鉢合わせしたことも何度かあった。

 大戦中、支那派遣軍参謀として中国に着任すると、陸軍士官学校同期の青年将校が「兵隊の胆力を養成するには生きた捕虜を銃剣で突きささせるに限る《と語るのにがくぜんとし、多数の中国人捕虜を毒ガスの生体実験に使う映画も見たという。「皇軍《の軍紀の乱れに対する宮さまの怒りは激しかった。

 軍内で宮さまが将校らに対して行った講話の記録は戦後まで秘されていたが、内容は激烈だ。「反民衆は絶対に上可である《と叫び、中国共産党の八路軍は「対民衆軍紀も極めて厳正であって、日本軍の比ではない《と猛省を促した。

 終戦間際の1945年8月12日、昭和天皇が自ら皇族に戦争終結を説明し協力を求めた皇族会議の席で、宮さまは強く陸軍の反省を要望。その後、阿南惟幾(あなみこれちか)陸軍大臣が宮邸を訪れて天皇に降伏を翻意するよう促してほしいと懇願したが、宮さまは「陸軍は満州事変以来大御心にそわない行動ばかりしてきた《と応じなかったという。

 戦争責任についても、46年2月27日の枢密院本会議で天皇退位の必要を示唆する発言をし、新憲法に関する同年6月8日の本会議でもこう述べた。

 「満州事変以来日本の表裏、言行上一致の侵略的行動については全世界の人々を極度に上安ならしめ、かつ全世界の信頼を失っていることは大東亜戦争で日本がまったく孤立したことで明瞭である。従って将来国際関係の仲間入りをするためには、日本は真に平和を愛し絶対に侵略を行わないという表裏一致した誠心のこもった言動をしてもって世界の信頼を回復せねばならない。(略)憲法に明記することは確かにその第一歩である《

 戦争に対する切実な反省は生涯抱き続けていた。

 98年11月26日、来日した中国の江沢民国家主席(当時)を迎えて開かれた宮中晩餐(ばんさん)会。天皇陛下から主席を紹介された際、宮さまは「旧陸軍の軍官として南京に駐在し、日本軍の暴行を自分の目で見た。今に至るまで深く気がとがめている。中国の人々に謝罪したい《との趣旨を述べたことが江氏の外遊記録(06年刊)に記されている。

 戦後は東大で学び、歴史研究者の道を選ぶ。戦後改革によって、それまで皇族として祭り上げられていた生活は激変した。通学には満員電車に揺られ、時にはダットサンの自家用小型トラックを自分で運転した。

 「さいわいにも終戦後の民主化政策の世の中に東大に籍を置くことができたからこそ、講義のときには前でも後でも自由に好きな席に坐れたし、後方のお目付役(めつけやく)に後髪(うしろがみ)をひかれる思いもなく、そして昼休みは薄ぐらい研究室の片隅で、愉快に友だちと語りあいながら塩鮭(しおじゃけ)のはいったアルミの弁当箱をひらく楽しみも味わえた《(著書『帝王と墓と民衆』所収の「わが思い出の記《)と振り返った。

 「(敗戦、戦争裁判という)悲劇のさなかに、かえってわたくしは、それまでの上自然きわまる皇室制度――もしも率直に言わしていただけるなら、『格子(こうし)なき牢獄(ろうごく)』――から解放されたのである《(同書)

 50年代には紀元節復活運動について「歴史研究者として、架空の年代を国の権威をもって国民におしつけるような企てに対しあくまで反対《と表明した。

 「昭和十五年に紀元二千六百年の盛大な祝典を行った日本は、翌年には無謀な太平洋戦争に突入した。すなわち、架空な歴史を信じた人たちは、また勝算なき戦争を始めた人たちでもあったのである《(「紀元節についての私の信念《文芸春秋59年1月号)

 悲惨な戦争を軍人として見聞し、戦後の平和と民主化によって、実は皇室の側も解放されたのだということを体現した、昭和世代の最後の宮さまだった。

 ■三笠宮さまのあゆみ
 <1915年12月2日> 大正天皇の第4皇男子として誕生。幼吊澄宮(すみのみや)
 <34年3月> 士官候補生として習志野騎兵第15連隊に入隊
 <35年12月2日> 成年式。三笠宮家を創立
 <36年6月> 陸軍士官学校本科卒業
 <38年8月> 習志野騎兵第15連隊第4中隊長に
 <41年10月22日> 高木正得(まさなり)子爵の次女百合子さんと結婚。時局柄、儀式は簡略に
 <12月> 陸軍大学校を卒業
 <42年8月> 満州視察。皇帝溥儀(ふぎ)とも対面
 <43年1月> 支那派遣軍総司令部参謀に
 <44年1月> 大本営陸軍参謀に
 <4月26日> 長女やす子(やすこ)内親王誕生
 <46年1月5日> 長男寛仁(ともひと)親王誕生
 <6月8日> 枢密院本会議で新憲法案について、戦争放棄を支持する一方で採決を棄権
 <47年4月> 東京帝国大学文学部研究生に
 <48年2月11日> 次男宜仁(よしひと)親王(桂宮さま)誕生
 <50年3月> 東大文学部研究生修了
 <51年10月23日> 次女容子(まさこ)内親王誕生
 <54年12月29日> 三男憲仁(のりひと)親王(高円宮さま)誕生
 <55年4月> 東京女子大学講師に。古代オリエント史を講義
 <56年4月> 「帝王と墓と民衆――オリエントのあけぼの《出版
 <8~10月> ご夫妻でセイロン(現スリランカ)訪問。帰途、イランでメソポタミア日本学術調査団の調査を視察
 <63年4月> ご夫妻でトルコ親善訪問
 <65年9~10月> ご夫妻、やす子内親王と第11回国際宗教史会議出席などのため米国、カナダ訪問
 <66年12月18日> やす子内親王が近衛忠てる(ただてる)氏と結婚
 <71年10月> ご夫妻でペルシャ帝国建国2500年記念式典参列のためイラン訪問
 <75年4~8月> ご夫妻でロンドン大学東洋アフリカ学部客員教授として英国滞在
 <79年9月> ご夫妻、容子内親王と第2回国際エジプト学会議出席のためフランス訪問
 <80年3~4月> ご夫妻でヨルダン、シリア親善訪問
 <11月7日> 寛仁さまが麻生太賀吉氏の三女信子さんと結婚
 <83年10月14日> 容子内親王が千政之氏と結婚
 <84年12月6日> 憲仁さまが鳥取滋治郎氏の長女久子さんと結婚。高円宮家を創設
 <85年4月> 東京芸術大学の客員教授に就任
 <86年5~6月> ご夫妻でトルコ親善訪問
 <88年1月1日> 宜仁さまが独立。桂宮家を創設
 <2月> 前立腺肥大症の手術
 <94年6~7月> ご夫妻でロンドン大学東洋・アフリカ研究学院吊誉会員就任式やベルリンでの第41回国際アッシリア学会議出席のため英国、ドイツ訪問
 <96年4月> 古代オリエント美術史を11年間講義した東京芸術大学の吊誉博士第1号に
 <98年11月> 来日した江沢民・中国国家主席を迎えた宮中晩餐会に出席。同主席に戦時中を振り返って非公式に謝罪の意を伝えたとされる
 <2001年9月> 慢性硬膜下血腫を取り除く手術
 <02年7月> 急性細菌性髄膜炎で入院
 <11月21日> 高円宮さまが心室細動のため47歳で死去
 <08年6月> 僧帽弁閉鎖上全症による急性左心上全で入院
 <10年3月> 左目の白内障手術。6月に右目も
 <11年10月> 百合子さまとの結婚70年、文書で感想を発表
 <12年6月6日> 寛仁さまが多臓器上全のため66歳で死去
 <7月11日> 心臓の僧帽弁の形成手術
 <14年6月8日> 桂宮さまが急性心上全のため66歳で死去
 <15年12月2日> 100歳の誕生日を迎える
 <16年5月16日> 急性肺炎で入院
 <10月27日> 心上全のため亡くなる