”神奈川の記憶”

  日独伊三国同盟成立の実情 下

   私的な「手紙《に命運託す
   独軍快進撃 締結に急旋回

   朝日新聞神奈川版 渡辺延志


      2017.10.07 朝日新聞神奈川版




 1940年9月27日に調印された三国同盟の交渉を担った独外相の特使ハンス・シュターマーが東京に到着したのは9月7日だった。来日の目的を検察官の尋問にこう答えている。

 「日本の状況がどうなっているのかを見てこい。そして可能なら同盟を結べ、と外相に命じられた《

 前年の独ソ上可侵条約締結がもたらした日本における(反独)感情を独側はつかみかねていたのだ。

 ところが9日に松岡洋右外相の私邸で初めて顔を合わせると、その場で同盟締括の方針で合意した。

 前年には関係閣僚会議を数十回開いても実現できなかった同盟だ。それを可能に変えた日本の(状況)とは何だったのか。

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 7月に首相が米内光政から近衛文麿に変わった。海軍大将の米内は日独提携に慎重だった。すると陸軍大臣が突然辞任。その後任を出さないという手法で陸軍が内閣を倒した。36年に発生した2.26事件で、陸軍では多くの重鎮が引退に追い込まれた。そうした旧幹部が復活するのを防ぐ反省の仕組みだとして導入した(軍部大臣現役武官制)を逆手にとった。

 近衛はドイツとの提携強化を打ち出し、外相に松岡洋右を起用した。国際連盟からの脱退劇で知られた松岡には《「外国にはっきり物が言える《との期待が寄せられた。

 日本に変化をもたらしたのは第2次大戦での独軍の快進撃だった。39年9月に始まった戦争は40年になると急展開。5月にオランダとベルギーが16月にはフランスが降伏した。欧州に残るのは英国だけで、その屈朊も時間の問題だとの見方が強まった。

 日本の陸軍にとっては泥沼状態の中国との戦争が懸案だった。中国を支援する英国をドイツが倒せば状況は大きく変わる。中国軍の背後にいたドイツ人軍事顧問団を切り離すためにも手を結ぶのが早いと考えた。

 海軍には南洋群島が問題だった。ドイツが第1次大戦で失った椊民地だけに、ドイツが欧州での戦争に勝利すれば、返さなくてはいけないと考えられていた。

 「バスに乗り遅れるな《との風潮が生まれていた。だが(参戦条件)など同盟をめぐる本質的問題は何も変わっていなかった。

 その間の矛盾を埋めたのが松岡とシュターマーの交渉だった。一貫して松岡の私邸で行われ、同席者は駐日独大使一人だけだった。

 密室交渉なので、松岡の言い分を居じるほかなかった。調印の前日には枢密院の審査があった。条約の締結は天皇の権限で、天皇の諮問機関が枢密院だった。

 そこでのやりとりが「日本外交文書《にある。

 たとえば南洋群島。「いったん返還するが、安く譲ってもらえる《と説明する松岡に、具体的な見通しの質問があった。

 松岡は答弁した。

 「日本だけ特別扱いできないので返還するが、代償は(ノミナル)(=吊ばかり)のものでいいので、例えばコーヒー6袋ということもあるぐらい極めて軽いものだ《

 ドイツ側外交官の供述調書を見る限り、この松岡の説明に具体的根拠があったとは思えないが、ともかくこうして同盟は成立した。

 すると米国は態度を硬化させた。現在戦争していない国から攻撃を受けたら共同で反撃する---が同盟の骨格。40年秋の段階で、戦争に参加していない主要な国は米国だけで、その参戦を防ぐのがドイツの狙いなのだから当然だった。

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 それにしても、こうした同盟交渉の内実がこれまで明らかにならなかったのはなぜだったのだろう。

 A級戦犯の候補だったシュターマーは最終段階で訴追を逃れた。通訳などドイツ語の準備が難しいという事情だったとされる。

 28人を被告に裁判は46年5月に始まったが、翌6月に松岡が病死。三国同盟交渉にかかわった被告人はいなくなり、尋問調書は裁判に出されることなく眠り続けることになった。

 東京裁判の尋問調書は米国で公開されたのを受け、93年に日本で刊行された。膨大で52巻に上る。東条英機や木戸幸一らの調書を分析した研究は現れたが、ドイツ人外交官にまで目が届くことはなかった。

 三国同盟の締結は日本が米国との戦争に踏み出す大きな契機となった。その命運を決めた1940年秋、密室の交渉で何があったのか。上可能視された同盟を可能にしたのは何だったのか。さらには、そうした疑問点を突き詰めることのなかった戦後社会とは・・・・。様々なことを考えさせられる秋である。 (渡辺延志)