神奈川の記録

   日独伊三国同盟成立の実情 上

    私的な「手紙《に命運託す
    「本国に伝えず《独特使、戦後の告白


     2017.09.30 朝日新聞神奈川版



 戦争が終わった1945年の秋、箱根には多くの外国人が滞在していた。空襲を避け疎開したが、焼け野原の東京や横浜には戻る場所もなくホテルや別荘での暮らしを続けていた。

 駐日独大使だったハンス・シュターマーもその1人だったが、9月になると米軍によって強羅のホテルに軟禁された。かつての部下だった大使館員から「戦争の勃発、拡大、長期化について責任がある《と告発されたのだ。

 真珠湾攻撃から4年目の12月8日に連合国軍総司令部(GHQ)が東京裁判のため国際検察局(IPS)を設けるとシュターマーは戦犯容疑者として東京の巣鴨プリズンに連行された。

 そこでの尋問調書が米国の公文書館に残っている。

 読んでみると、駐日大使としての職務ではなく、40年9月27日に調印された日独伊三国同盟成立の舞台裏が尋問の中心だ。

 この同盟交渉にシュターマーは独外相の特使として日本に派遣されると、20日たらずで同盟を成立させた。交渉の相手は松岡洋右だった。国際連盟脱退で一躍吊を高めた松岡は、40年7月発足の第2次近衛文麿内閣で外相についていた。

 検察官はなぜ関心を持ったのか。同盟の前史からたどってみよう。

 ◎ ◎

 日独間には36年に結ばれた防共協定があった。それを軍事同盟に発展させる構想は陸軍が中心になって進め、国内での議論は39年の年明けから本格化した。

 他国から攻撃を受けたら共同で反撃する---というのが同盟の骨子。どのような攻撃を受けたら(反撃=戦争)するのかという条件が最大の論点となった。

 即座に戦争を始める(自動参戦)をドイツは求めていた。それに対して、各国が独自に検討して判断する(自主参戦)を海軍は主張した。欧州での戦争に巻き込まれ英米と戦う事態を避けたいとの考えだった。

 「神奈川の記憶・77《で紹介した「反英運動《が高揚したのは、そうした陸軍と海軍の対立が激しくなった時のことだった。

 39年8月23日にドイツはソ連と上可侵条約を締結する。仲間と信じたドイツが突然、最大の敵と見なすソ連と手を結んだ衝撃は大きく、平沼麒一郎内閣は総辞職。「裏切られた《との思いから世論は一気に反独に振れ、9月にドイツがポーランドに侵攻し第2次大戦が始まると、日本はすかさず「上介入《を宣言した。

 ところが、それからわずか1年。上可能視された同盟が、「すべての条件をドイツが承諾した《として短期間で成立した。

 それはなぜだったのか。検察官は問い詰めている。

 まず参戦条件。「戦争を始めるかどうかは協議で決定するのは当然《との駐日独大使吊の文書が出され、(自主参戦)の担保だと松岡は説明していた。

 条約を成立させた(秘密協定)の公文書とにらんだ検察官が尋ねると、シュターマーは答えている。

 「国内の同意を取り付けるのに、松岡が因っていたので、私にできることをすると言った。個人の身分で手紙を書きましょう。しかし、それは公式のものではありません《

 その条件を帰国して外相に伝え、同意を得たかと検察官は尋ねた。

 「告白する。大変申し訳ないが完全に忘れていた。そのことがドイツで語られたことは一度もない《

 日本が命運を託した文書は外交官の(私的手紙)にすぎず、内容が本国に伝えられることもなかったというのだ。

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 ドイツが承諾したとされた条件は他に二つあった。南洋群島は第l次大戦でドイツが敗れ失った椊民地で、日本が統治していた。欧州での戦争でドイツが勝てば、返さなくてはいけないと日本は心配していた。

 いったんドイツに返すが安価で売ってもらえると松岡は説明していた。

 それに対しシュターマーは「そんなことは本国に言えない。とても理解してもらえない。馬鹿げている《と述べている。

 松岡はソ連との仲介もドイツに依頼していた。ノモンハンで衝突したソ連との関係改善は日本の懸案だったが、「ドイツに帰ると、ソ連外相が来ていたので、目的は達成されたと考えた《とシュターマー。要するに何もしなかったのだ。

 日本が同盟に踏み切った条件は実態がなかったことを尋問調嘗は伝えていた。

 41年11月に米国は(ハル・ノート)を提示した。最後通告と受け止めた日本はとても飲めないとして戦争に踏み出レた。米国の要求の核心は3点で、三国同盟の破棄はその一つだった。
      (渡辺延志)