神奈川の記録

   全権松岡洋右の帰国
   横浜港は歓呼の声にわいた

    「日本は正しい《信じて孤立へ


     2017.04.29 朝日新聞神奈川版



 1933(昭和8)年4月27日、横浜港は人波で埋まっていた。正午のサイレンが鳴るころ、日本郵船の浅間丸が姿を現した。政府や軍の高官、知事、市長らの乗った歓迎の小型艇が何隻も付き従っていた。

 朝日新聞はその模様を一面トップで報じている。 「船体が岸壁に横づけとなるや万歳の歓呼の声が怒濡のようにわき上がった。力強い上陸第一歩を印する瞬間、歓呼は爆発して一種壮烈なシーンを展開した《

 数万と伝わる大群衆が待ち構えたのは松岡洋右。首席全権として派遣されたスイス・ジュネーブの国際連盟からの帰国だった。

 「正義日本のために雄々しく戦った自主外交の勇将松岡帝国代表が元気で帰国して来たのだ《。記事には高揚感が漂う。

 金メダル7個を獲得した前年のロサンゼルス五輪の選手団帰国と同等の警備態勢が港一帯には敷かれた。

 それほどの歓迎を受けた松岡は何をしたのだろう。

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 国際連盟では日中紛争が懸案だった。31年9月に満州事変が勃発。日本が権益を持つ南満州鉄道が爆破されたのを発端に、日本軍は満州を制圧。32年3月には満州国が建国を宣言した。

 「日本の軍事行動は上法な侵略行為だ《と中国が提訴したのを受け、国際連盟はリットン調査団を派遣。その報告書の審議が本格化する32年11月、松岡がジュネーブに到着した。

 山口県出身の松岡は若くして米国に渡り、苦学して外交官になった。その後は衆議院議員に転じたが、弁舌と英語力に優れているとして首席全権に選ばれた。

 着任すると「松岡全権熱弁を撃つ《との記事が新聞にさっそく登場している。

 「全権は原稿なしに、痛烈なる反駁演説を始め、長広舌でまくし立て、聴衆をして傾聴させた《

 調査団の報告書は《「満州事変は自衛行動で、満州国は現地中国人の意思による建国《とする日本の主張を認めなかったが、「事変以前の状態に戻せ《という中国の要求も退けた。決して搊な妥協案ではなかったが、日本は強硬だった。

 松岡を有吊にしたのは12月の演説だった。

 「連盟は日本に対し重大な誤謬を冒し、日本の正義の声を聞こうとしない。今まで隠忍してきたが、もう辛抱ができない。2千年前にはナザレのイエスが世界の世論によって十字架にかけられた。もし今日、日本が十字架にかけられるとしても、世界の世論はやがてわれわれに与するに至るであろう《

 原稿なしで1時間20分に及ぶ演説だった。

 33年2月、国際連盟は報告書への同意を確認。賛成42票。反対は1票、日本だけだった。

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 日本は国際連盟を脱退。孤立の道を歩み始める。総会から退席する様子を米国のタイム誌は「のけ者松岡に話しかける者はいなかった《と報じた。

 だが、国内での受け止めは違っていた。

 「日本の立場、国民のいはんと欲するところを極めて率直にいひ尽くして遺憾なきものがあった。虚偽と追随とを事とした無気力外交の型を破って国民のために気を吐いた《と朝日新聞は評している。

 「日本は正しい《と信じる国民のいら立つ思いを松岡は晴らした。その結果が横浜港での大歓迎だった。松岡は英雄となり、その後の政界で重きをなす。

 鉄道爆破は関東軍の謀略で満州国は日本の傀儡-----そうした事実を隠した日本の言動をたどるうち昨今話題の言葉が思い浮かんだ。

 (ポスト真実)

 オックスフォード英語辞書は「客観的事実より感情的訴えかけ方が世論形成に大きく影響する状況《と説明する。何も違わない。

 松岡が帰国した日に、東京の靖国神社では、満州事変のための臨時大祭が行われていた。合祀された戦死者は1700人余。足かけ15年に及ぶことになる一連の戦争で繰り返される臨時大祭のはしりで、その後は人数が桁違いになる。それが結末だった。

 84年前の横浜港の姿は、(ポスト真実)が民衆の熱気によって支えられるものであることを物語る。

 その日の横浜は快晴だった。朝日新聞は「日本晴れに輝く《 「松岡日和《と報じている。窓を開けて見上げてみよう。そこには何も変わらぬ4月の空が広がっているはずだ。(渡辺延志)