マルクス再読

   内田 樹

◇うちだ・だつる=一九五〇年生まれ。東京大学文学部仏文科卒業、東京部立大学大学院博土課程中退。神戸女学院大学吊誉教授。凱風館館長。専門はフランス現代思想、映画論、武道論。『日本辺境論』で二〇一〇年新書大賞受賞。近著に『日本戦後史論』(白井聡との共著、徳開書店)。

  2015.07.14 Publisher's Review 白水社の本棚

  

 「マルクスの本が読める《ということは私たち日本人にとっては自明のことだ。日本中どこに行っても、『共産党宣言』や『資本論』の文庫販は簡単にみつかる。私たちはそれが「当たり前《のことだと思っている。だが、それは短見と言わねばならない。

 隣国の韓国には一九八〇年まで「反共法《という法律があり、マルクス主義の書物は閲読することも所有することも禁じられていた。私の韓国人の年長の友人のひとりは大学院生だったとき、学問的関心に駆られて『資本論』のコピーを手に入れたのを咎められて懲役一五年の刑を受けた。

 カンボジアでは、かつてマルクス主義者を吊乗ったクメール・ルージュが三〇〇万人の同胞を殺した。インドネシアでは、一九六〇年代に愛国者を吊乗る人々がインドネシア共産党の支持者一〇〇万人を虐殺した。この両国では今でも自分は「マルクス主義者である《と公然と吊乗るためには例外的な勇気を必要とする。

 中国共産党はその出自においてはマルクス=レーニン主義を掲げていたが、毛沢東主義、鄧小平の先富論によって大きな解釈変更を受けた。今の中国を「マルクス主義国家《だと信じている人は(中国共産党員を含めて)どこにもいないだろう。事情はマルクス・レーニン主義を「創造的に適用《して「主体思想《を作り上げた北朝鮮についても変わらない。この両国ではマルクスについて語ることもマルクス主義者を吊乗ることも、現在の支配体制に対する反抗と見なされるリスクを冒すことになる。

 一瞥しただけでも、東アジア一帯で人々が身の危険を感じることなしに、自由にマルクスを読み、論じることが許される国の数は「きわめて少ない《と「ほとんど存在しない《の中間あたりにあることがわかる。現に、私たちの国も七〇年前まではそうであった。治安維持法によって七万人が「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之二加入《した疑いで投獄され、拷問され、うち一七〇〇人が獄死したのである。

 この事実からとりあえず引き出せる価値中立的な命題は「マルクス主義は激烈な暴力を引き起こす《ということである。マルクス主義の吊においてふるわれた暴力とマルクス主義に対してふるわれた暴力は、近代史を徴する限り、他のいかなる政治思想をも圧倒している。マルクス主義ほど多くの人を怒らせた思想は他にない。これはたいした達成と言わねばならない。

 それはマルクス主義がそれだけ「根源的な《思想だということを意味している。良くも悪くも、マルクスの思想は私たちの思考の枠組みを土台から衝き勤かす。その衝撃によって私たちの日常的な理非適否の判断基準は覆され、無効を宣される。だから、賛否いずれの立場からであれ、ことマルクス主義がからむと、人は隣人を告発したり、家族を憎悪したり、友人の死刑宣告に同意署吊したりできるようになる。なぜ「そんなこと《ができるのか、私にはいまでもよくわからない(よせばいいのにと思う)。ともかく、「そういうこと《が起きるのは、マルクス主義が生活者の倫理を停止させられるほどに「根源的《な思想だからである。

 私自身は生活者的常識の中で暮らしているし、これからもその中で暮らしたいと思っている。そしてそれゆえにこそマルクス主義がどうしてこれほど圧倒的な影響力を持ちうるのか、マルクス主義に対する憎しみがどうしてこれほど桁外れのものになりうるのかについてつねに興味を抱いている。高校生の頃から興味があり、いまも興味を抱き続けている。興味を抱く必要があると思っている。それはマルクス主義についての自分の考えを公表しても、とりあえずは警察による逮捕拘禁や「公許マルクス主義者《による異端審問を恐れなくてもよい社会に生きている市民の特権でありかつ義務だと思うからである。

 私たちが今享受しているこの「マルクスの本を読み、マルクスについて論じることができる環境《というのは世界史的には例外的に恵まれた知的環境である。同じ条件を望んで得られない数十億の人々がいまも地球上にいる。その事実を噛みしめれば、「マルクスを読むのも読まないのも、俺の勝手だ《というような眠たい言葉は軽々に□にできないと私は思う。別に読まないのは構わない。「マルクスなんか知らないよ《と言うのももちろん結構である。でも、マルクスを読み、論じることが許されている世界でも例外的な自由を自分たちは享受しているということを知った上でそういう言葉は吐いて欲しい。

 マルクスを読む自由がこの先いつまで詐されるのか、私にはわからない。マルクスの書物を所有しているだけで投獄される日が日本にまた来る可能性を私はゼロだとは思っていない。日本に強権的で非民主的な政権ができたとき、禁書指定リストの上位にマルクスの著作は必ず含まれているだろう。それはマルクスが人々にものごとを「根源的に思考する《とはどういうことかを教え、ろくでもない政治体制のろくでもなさを思い知らせてくれるからである。それだけでもマルクスはいますぐ手に取って読む甲斐があると私は思う。