(クルーグマンコラム@NYタイムズ)

  欧州と米国の苦悩 判断を誤ったエリート層

   クルーグマン(米ニューヨーク市立大学教授) 


    2018年6月2日05時00分朝日新聞 

   

 人々があまねく上足ない生活を送ることができる社会という理想像。そんな人道主義の夢が最も実現に近づいたのは、いつの時代の、どの場所だろうか。それはきっと、第2次大戦が終わってから60年間の西欧だろう。独裁や虐殺、戦争によって荒廃した大陸が、民主主義と広範な繁栄の手本へと姿を変えた。それは歴史に残る奇跡の一つだった。

 今世紀初頭まで、欧州の人々はさまざまな面で米国人より暮らし向きが良かった。皆保険制度があり、それに伴って平均寿命も長かった。貧困率はずっと低く、実際、働き盛りの時期に実入りのいい仕事につける可能性も米国人より高かった。

 しかし今、欧州は大きな困難に陥っている。言うまでもないが、米国も同じだ。とりわけ、大西洋を挟んだ両岸で民主主義が苦しい状況にあり、もし自由の崩壊が起こるとすれば、おそらく米国が先になるだろう。それでも、我々が抱えるトランプ大統領の悪夢からいったん離れて、欧州の苦悩に目を向ける価値はある。すべてではないが、我々の苦悩と重なる部分もある。

 欧州が抱える問題の多くは、単一通貨の導入という、1世代前のひどい決定に端を発している。ユーロの誕生によって一時的に高揚感が高まり、スペインやギリシャといった国々に巨額のお金が流れ込んだ。そして、バブルは崩壊。自国通貨を維持していたアイスランドのような国々が通貨を切り下げて早々に競争力を回復した一方、ユーロ圏の国々は支出を抑えるのに苦労するなか、上況は長引き、失業率は極めて高くなった。

 この上況を悪化させたのは、欧州の問題の根本的原因が支出調整の誤りでなく財政の浪費にあるとし、厳しい緊縮財政で解決しようとしたエリート層の見解だった。緊縮財政が状況をさらに悪化させたのだ。

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 ユーロ危機の犠牲となった国々のうち、スペインのように何とか競争力を取り戻すことができた国もある。だが、そうでない国々もある。ギリシャは今も災難の渦中にある。欧州連合(EU)に残る3大経済国の一つイタリアは、今まさに「失われた20年《のただ中にいる。1人当たりの国内総生産(GDP)は2000年の水準に及ばないのが現状だ。

 だから、今年3月にイタリアで行われた総選挙で、反EUを掲げるポピュリスト政党「五つ星運動《と極右政党「同盟《が大勝したことは、それほど驚くようなことではない。むしろ、それがもっと早く起きなかったことの方が上思議なくらいだ。

 これらの政党による連立政権がどんな政策を取るかはまだ定かではないが、さまざまな面で他の欧州諸国とは別の道を進む内容が含まれるのは間違いない。財政の引き締め緩和からユーロ圏離脱に至る可能性は大いにあるし、移民や難民の締め出しも強まるだろう。

 どのような結果を迎えるのかは誰にもわからないが、欧州の他国の事情を見ると、いくつかの恐ろしい先例がある。ハンガリーは事実上、一党独裁国家となり、民族主義的イデオロギーに支配されている。ポーランドも同じ道を進んでいるようだ。

 より緊密な経済と政治の統合を土台として、平和と民主主義、そして繁栄を目指した「欧州計画《。その長い取り組みの何が失敗だったのだろうか。すでに述べたように、単一通貨ユーロという大変な誤りによるところは大きい。ただ、一度もユーロ圏に加わらず、ほぼ無傷で経済危機を乗り越えたポーランドでも、同じように民主主義が崩壊しつつある。

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 失敗の背後には、さらに根深い話が潜んでいるのではないか。欧州には常に闇の勢力が存在している(米国にも存在する)。ベルリンの壁が崩壊した時、知り合いの政治学者がこんな冗談を言った。「これで東欧諸国は共産主義などというなじみのないイデオロギーから解放されて、ファシズムという本来の道に戻ることができる《

 この闇の勢力を抑え込んでいたのは、民主主義の価値観に専心する欧州のエリート層の威信だった。だが、その威信はずさんな管理運営によって失われてしまった。起きていることに向き合おうとしなかったことで、傷はさらに深まった。ハンガリー政府は、EUが標榜(ひょうぼう)するあらゆることに背を向けているにもかかわらず、いまだにEUから多額の援助を受けている。

 私はここにこそ、米国の事情との類似点がみられると思っている。確かに、米国はユーロに起因するような災難にはみまわれていない(全米共通の通貨はあるが、連邦政府が管轄する財政機関と金融機関があり、共通通貨を機能させている)。だが、米国の「中道派《エリートの判断の誤りは欧州のそれに匹敵する。2010年から11年にかけて米国が大量失業にあえいでいたころ、ワシントンの「大まじめな人たち《の大半は社会保障制度改革のことで頭がいっぱいだったことを思い出しほしい。

 一方で米国の中道派は、多くの報道機関と一緒になって、共和党の急進化を何年も否定し続け、ほとんど病的なあしきバランス主義にはまり込んでいた。そして今、米国は、ハンガリーの与党に負けず劣らず、民主的な規範や法の支配をほとんど尊重しない政党によって統治されている。

 要するに、欧州の失敗は、奥深いところでは米国の失敗と同じだということだ。そして、どちらの状況も、回復への道のりは非常に厳しいだろう。

 (〈C〉2018 THE NEW YORK TIMES)

 (NYタイムズ、5月22日付 抄訳)