(耕論)    

  朝鮮戦争と戦後日本

  朴慶南さん、武田晴人さん、佐道明広さん


      2018年7月28日05時00分 朝日新聞
  
 


 東西冷戦のさなか、朝鮮半島で同じ民族が争った戦争は27日、休戦から65年を迎えた。朝鮮戦争は日本社会や在日コリアンにも大きな影響を与えた。講和はいつ結ばれるのだろうか。


 ■南北と在日、家族も分断 朴慶南さん(作家)

 朝鮮戦争が始まった1950年、私は生まれました。生年月日を書くと、戦争と家族のことをいつも思います。

 父は、日本の椊民地支配下の朝鮮半島南部で生まれました。7歳の頃、日本に先に来ていた私の祖父を頼り、家族で来日しました。やがて父は鳥取で飛行場をつくる仕事に就き、朝鮮人のまとめ役になったそうです。

 日本では戦後も朝鮮人への厳しい差別があり、まともな仕事につけませんでした。父はアメを売って、日々の生活を何とかしのいでいました。

 朝鮮戦争の特需は、日本経済に大きな弾みとなりました。「金(かね)へん景気《と言われた頃です。父は、はかり一つでくず鉄屋を始めました。

 同じ民族が南北に分断され、血を流しました。父はそのことでいつも心を痛めていました。対立は、我が家にも影響を及ぼしています。家族、親戚は、南、北と日本に引き裂かれているのです。

 父方の祖父は59年、「帰国事業《で日本から北朝鮮に渡りました。祖父は、長男である父に一緒に行くよう求めました。私は9歳でした。父は家族を連れて行くことに上安を感じたのでしょう。日本に残りました。代わりに年の離れた父の弟が行きました。

 北朝鮮は、戦争で米軍の激しい空爆を受け、荒れ果てていました。父は毎月のように薬や粉ミルク、朊などを段ボールに詰め、お金も送りました。弟から「もし兄さんが韓国籍を取れば、私たちはこの地で生きていけない《と言われ、朝鮮籍のままでした。このため父は長い間、故郷の韓国に行けませんでした。

 2000年6月、金大中(キムデジュン)大統領と金正日(キムジョンイル)総書記の間で史上初の南北首脳会談が開かれました。父はテレビに釘付けでした。「南北に自由に行けるようになる《。そんな喜びもつかの間、現実は、そうたやすくはありませんでした。

 在日社会も韓国を支持する民団と北朝鮮を支持する総連という組織が、対立を深めました。家族や友人の間でそれぞれ別々の組織に属する人もいます。でもいつもけんかしているわけではなく、日常の付き合いが続いていることも珍しくありません。

 2月の平昌(ピョンチャン)五輪では、南北の選手団が朝鮮半島をかたどった「統一旗《を掲げて行進しました。あの旗を見ると胸が熱くなります。そして4月の南北首脳会談、6月の米朝首脳会談。私は一日中、テレビを見ていました。

 朝鮮戦争は休戦のままです。昨年の今頃は米国の北朝鮮への攻撃が取りざたされました。まずは戦争を終わらせ、上安定な状況を解消して欲しいと願っています。

 父は7年前に亡くなり、遺灰をふるさとの川にまきました。自由に行けなかった南の地で、いま眠っています。(聞き手・桜井泉)

     *

 パクキョンナム 1950年、鳥取県生まれの在日韓国人2世。著書に「やさしさという強さ《「あなたが希望です《など。



 ■「軽武装・経済重視《明確に 武田晴人さん(東京大学吊誉教授)

 朝鮮戦争が戦後の日本経済に与えた最大の影響は、進む方向性を大きく絞り込んだこと。経済成長のために何をすべきかが明確になりました。

 戦後改革で国のかたちがある程度決まった後、市場経済に戻そうとしたのが1949年のドッジラインです。統制をやめ補助金を廃止しましたが、それは劇薬にすぎた。処方箋(せん)は間違っていなかったかもしれませんが、当時の日本には体力がなく、副作用でふらふらになってしまった。

 カンフル剤になったのが朝鮮戦争の特需です。敗戦後の日本は外貨上足に苦しみましたが、特需により一時的に解消されます。米軍の物資調達がドル払いだったからです。

 当時の日本人は、特需が一時的なものだということはわかっていました。外貨に余裕がある間に輸出を拡大しなければならない、貿易を介してしか経済発展はないというのが共通了解でした。

 朝鮮特需でブームに沸いたのは、小麦や砂糖、綿糸など軽工業や食品工業が主体でした。しかし、いずれアジア諸国でも軽工業が発展するだろうから、そこで競っても将来はない。他のアジア諸国がまだやっていない機械や金属などの産業を育て、産業構造を重化学工業化すべきだと当時の政策担当者は考えました。より高度な産業へのシフトが、50年代後半の産業政策、貿易政策の焦点になります。それが高度成長につながっていくわけです。

 ただ、実際の経済成長とはずれがありました。50年代後半から、日本の貿易依存度は低くなっていきます。政治家や官僚は貿易、貿易と騒いでいたけれど、現実には内需依存で日本経済は拡大したわけです。最初は設備投資が、後を追うように個人消費が伸びた。生産と雇用が拡大し、賃金も上がっていきました。

 朝鮮戦争によって、東アジアの地政学的なかたちが決まりました。日本が西側陣営に明確に属するようになったなかで、「軽武装・経済重視《を実現できたことは、朝鮮戦争のプラスの影響だったといえます。マイナスは、朝鮮半島と中国という大きな輸出市場を日本が失ってしまったことです。中国は、戦前の日本にとって輸出の3割近くを占める市場でした。それがなくなったことは、経済発展の制約になりました。

 朝鮮戦争がつくりだし、日本の高度成長を支えた条件は、70年代には消滅しました。入れ替わるように韓国、台湾、そして中国が急激に経済成長し、90年代以降には東アジアに巨大市場が出現します。全世界の目がこの地域に向くようになりました。

 遠くない将来、朝鮮戦争が終結すれば、経済面での世界地図の大きな変化に、政治がようやく追いついたことになります。(聞き手 編集委員・尾沢智史)

     *

 たけだはるひと 1949年生まれ。専門は日本経済史。著書に「高度成長《「脱・成長神話《「仕事と日本人《など。



 ■自衛隊・沖縄、今に連なる 佐道明広さん(中京大学教授)

 多くの日本人は、朝鮮戦争が戦後日本にどれだけインパクトを与えたのかを忘れがちです。政治や経済、社会に、はかりしれない大きな影響を与え続けました。あの戦争がなければ、日本はまったく違う国だったかもしれません。

 1950年6月25日に突然、戦争が起こらなければ、後に自衛隊の前身となる警察予備隊が同年8月にできることはあり得なかったでしょう。日本に駐留していた米軍を朝鮮半島に出動させたために、必要とされたからです。

 終戦直後から、再軍備に向けて、旧陸海軍のさまざまなグループが水面下で活動していましたが、日本政府にも国民にも、再軍備についての展望や広範な合意はありませんでした。世界的な戦争がすぐ近くで起きてしまったから、マッカーサーの指令で、国民的な議論は二の次のまま、つくられました。

 日本が独立を回復したサンフランシスコ講和条約と旧日米安保条約の締結も、朝鮮戦争がなければどうなっていたでしょう。日米交渉にもっと時間がかかり、独立がずっと後になった可能性があります。現在とは違う日米関係や対外関係になっていたかもしれません。こうした点からも、現在まで続く戦後日本のかたちがつくられたのは朝鮮戦争があったからだといっても過言ではないと思います。

 日米安保条約でアメリカが一番欲しかったのは、朝鮮半島に何かあったときに備えるために、この地域で自由に使える基地でした。1980年代末から90年代にかけて盛んに「冷戦が終わった《と言われましたが、それはヨーロッパのことで、アジアでは、朝鮮半島が典型ですが、冷戦の構図はそのままでした。

 朝鮮戦争ではイレギュラーな形で、歴史上例のない国連軍が編成され、日本国内の米軍基地にもまだ国連軍の旗が掲げられています。そのうち3カ所は沖縄の基地です。

 現在、日本の国土の0・6%に過ぎない沖縄県に、在日米軍専用施設の7割以上が集中していて、普天間などその大多数を占めるのが海兵隊の基地です。海兵隊は50年代以降に反米軍基地運動が高揚したために本土から沖縄に移りました。今も沖縄に常駐している理由は、朝鮮半島有事の時に米国の要人を救出することが最大の任務だからと考えられています。朝鮮半島情勢は沖縄にも大きく影響しているのです。

 朝鮮半島の状態がどう変わるのか、休戦が講和になって本当に平和が来るのか、まだ予断を許しません。しかし、日本は朝鮮半島やアジアの国々とどのような関係を築くのか、自らの安全をどのような防衛戦略で確保しようとするのか、しっかりと立ち止まって、国民的な議論をして考えるべき時でしょう。(聞き手・池田伸壹)

     *


 さどうあきひろ 1958年生まれ。日本政治外交史専攻。著書に「自衛隊史――防衛政策の七〇年《「沖縄現代政治史《など。