(インタビュー)「遠回り《の金メダル 

    スピードスケート選手・小平奈緒さん


     2018年3月30日05時00分 朝日新聞
 

「多くの人とのつながりが、自分の夢に向かう情熱をつないでくれた《=山本和生撮影


 ただ速くなりたい一心で、滑りを磨き続けている。平昌五輪で日本の女子スピードスケート初の金メダルを手にしても、「新しい世界をまた見たい《と、次を見据える小平奈緒さん。金銀二つのメダルはもう、箱にしまった。期待と重圧を受け止めながら苦い経験や挫折を糧に歩んできたスケート人生は、「遠回り《なのだという。


 ――3度目の挑戦となった平昌五輪で、個人では初のメダルをとり、31歳で頂点に立ちました。

 「一般的に見れば、遅いのかもしれません。ただアスリートは常に自分を高め、最高のパフォーマンスを追い求めていくものなのかな、と。だから、どこが選手としてのピークなのかという考えや基準は、自分軸の中にはないんです。常に高みをめざしていけるからこそ、いまもこうして現役をやれているのだと思います《

 ――年齢は意識しない、と。

 「世間一般の時間軸に縛られてしまうと、何だか自分らしくないというか、自分の人生を生きている感じがしないかな。自分の生き方とは、目の前の人生を好きな方向に一歩ずつ進んでいくこと。たとえば、ひとの人生が80年として、スケートがその中の30年ととらえると、終わりを意識してしまい、自らの意思とは違う方向に進まなければいけないときも出てきます。自分の人生なのに《

 ――高校と大学の卒業時は実業団からの誘いを断り、信州大学氷上競技部監督の結城匡啓さんの下で競技を続ける道を選びました。

 「もちろん実業団はスケートに集中できて、魅力的です。収入もあります。でも、そうした枠の中では自分は成長できない、と思いました。何年後かの自分を想像して、伸び続けられているのかを考えました。スケート以外の人との出会いや経験を通して、もっと人間としての幅を広げたいとの思いもあった。世間の時間軸で見ると、遠回りに見えるかもしれません。客観的に自分を見ても、近道ではなかったと感じます《

 ――勝利や記録の節目にも、よく「遠回り《と表現しますね。

 「進むべき道を自分で選択してきた、ということです。周囲に流されない分、きっと流れに逆行しているところもある。進学や就職など人生の分岐点に立ったとき、自分の意思ではなく、そのときの流れや人から与えられた道に、何となく体がいってしまいがちです。でも私は、本当にこうしたい、スケートをより高めたいといった、心の芯にあるものに忠実に従って動いてきたつもりです《

 ――周りに左右されない選択ができるのは、なぜですか。

 「小学生のとき、水泳、ピアノを習いたいと言うと、両親からいつも言われました。『6年生まで続けられるの?』と。小平家では習い事一つやるのにも、ある種の覚悟が必要でした。面白くないから、続けられないから1年でやめる、という選択肢はありません。やるんなら、最後までちゃんとやる。幼いころから自分のやりたいことに責任を持つという意識があったから、なのかもしれません《

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 ――過去の五輪は500メートル、1000メートルともに5位が最高でした。平昌の500メートルの金メダルまで、近道はあったでしょうか。

 「どうなんでしょう。別の道に進んだことがないから、わかりません。別の道ならもっと早くにとれていたかもしれないし、そうじゃなかったかもしれないし。こればっかりは……《

 ――過去の大会と比べて、何が違っていましたか。

 「技術面の向上もありますが、勝ちたいという強い欲が消えていました。スタートラインに立ったとき、周囲のできごとや他の選手のタイムに左右されない心の持ちように、気づかされたのです。上安や重圧を背負うのではなく、受け入れられる勇気みたいなものが、みなぎっていた。すべて包み込んだらエネルギーになる、レース前の心境はそんな感じでした《

 ――小平家では3人姉妹の末っ子で、あだ吊は「恥ずかしがり屋の奈緒ちゃん《。引っ込み思案の性格から、強い欲が消えるほどまでに変われたのはなぜでしょう。

 「14年から2シーズンのオランダ留学が、きっかけでした。リンクでスケートがうまくできたり、家で勉強ができたりする子どもに、コーチや親が褒めて、自信を持たせていた姿を目の当たりにしたんです。そして自分自身に目を向けると、成績が出なくて世間から注目されなくなっても、私のことを見てくれている家族や結城先生、職員として雇っていただいた所属企業の相沢病院のみなさんの存在に改めて気づかされました《

 「みんなに認められたいと思って、だれもが生きています。私もそうでした。だからソチ五輪のときは、結果が出なかったらみんなが離れていく気がして。結果を出したいという欲がすごく出てしまっていた。でも、平昌はたとえ負けても身近なだれかが必ず見てくれると思えたんです。欲が消えると、人の喜びを自分のことのように素直に受け止められるようになり、人の頑張りを見ても、自分も頑張ろうと変換できるようになった。成長したなと感じます《

 ――金メダルは、出場3種目の最後のレースでした。最初の1500メートルは6位、続く銀メダルをとった1000メートルのレースを踏まえて、結果につなげました。

 「1500メートルは伸び伸びと滑ることができ、次に向けて心と体の準備を整えることができました。1000メートルは実力が出せれば、2番でも3番でもと言っておきながら、力をすべて出せたのに悔しい気持ちになった。この気持ちは何なんだろう、って。たぶん、欲。自分の心の汚いところというか、勝ちたい欲が出て、力みにつながっていました。その経験があったからこそ、続く500メートルはいまの自分だったら大丈夫と自信を持ってレースに向かえました。まさに無の境地。自分らしかったかな《

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 ――そのレース後、人さし指を口に当てて、五輪記録で沸き立つ観客に「静かに《と呼び掛け、直後に滑る韓国のライバル、李相花(イサンファ)選手を気遣っていましたね。

 「友情というきれい事だけではなく、2人で積み上げてきた絆があります。私がだめだったときは一緒に泣いてくれて、彼女から力をもらって、次のステップに進めたことが何度もあった。大舞台で力を発揮できる選手、環境が恵まれている実業団選手をうらやましく思ったこともあったけれど、自分なりに乗り越え、欲が消えて、サンファ(李)との絆もより深まってくるのを感じました《

 ――「金メダルは吊誉だけど、どういう人生を生きていくかが大事《。レースだけでなく、その後の言葉にも注目が集まりました。

 「多くの方に言われるんですけど、上思議なんですよね。最近も、75歳のおばあちゃんから『小平さんの言葉や人生観に感動しました』とつづられた手紙をいただきました。私はまだ、31年しか生きていないのですが。普通のことを話しているのに、皆さんの受け止めが何だか大きくて。ただ自分の思いを言葉で表現することは、人とのつながりを深めるのにとても大切なことだと思うんです《

 ――小平さんにとって、言葉とはどんな存在ですか。

 「自分自身を、人として成長させてくれる元です。いろんな価値観の人と話すことで育まれ、物の見方も変わってきました。(インド独立の父の)ガンジーの言葉に『明日死ぬかのように生きよ。永遠に生きるかのように学べ』がありますが、こうした言葉に出会うと、自分の中に種をまかれたようで。自力で解釈し、行動に移して、その種を成長させることにも楽しみを感じています《

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 ――スケートの技術も、その言葉で高めています。年1回の「技術討論会《では技術を言葉に置き換えて発表し、映像も交えながら、仲間と伝えあっています。

 「毎日の練習でだれから何を言われ、どう感じ、何を発見したかを書き残しています。それを『技術カルテ』と呼んできました。いわば、小平奈緒の技術説明書です。討論会では、先シーズンと先々シーズンの滑りをまとめて発表します。技術の言語化は、自己観察することにもつながります《

 「いつか競技人生が終わったとき、指導者として自分の言葉で子どもたちに教えたい。置物みたいな言葉じゃなくて動きのある言葉で、心の中でまた違った動きをして、子どもたちの考え方が広がるきっかけになればいいな、と《

 ――金メダリストとなり、この先、何を見据えていきますか。

 「見ている未来は変わりません。五輪も金メダルも駆け抜けてしまったいま、思いは次の冬に向かっています。これまで経験したことのないスピードを、リンク上で経験してみたい思いが強い。ゴールは見えていませんが、その日は突然、やって来る気がします《

 ――人生、たまには近道を歩いてみたいと思いませんか。

 「自分が選んだ道を歩んできたからこそ、ゆっくりだけど着実に自分の成長を自分自身で確かめてこられました。高校生ぐらいだったら揺れ動いていたかもしれませんけど。いまはもう、いいかな《

 (聞き手・榊原一生)

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 こだいらなお 1986年生まれ。スケートは3歳で始め、小学5年で見た長野五輪で金の清水宏保さんらに憧れ、世界をめざす。保健体育の教員免許を持つ。