パール判事の東京裁判日本無罪論

  推薦のことば

  小林よしのり

  



 本書は、第二次世界大戦終結後に行なわれた東京裁判(極東国際車事我利)の本質と、この裁判においてただ一人「被告人全員無罪《を主張した、インドのラダ・ビノード・パール判事の理念を最も簡潔、的確に伝えた一冊である。

 著者の山中正明氏は、連合国占頷下の言論弾圧が非常に厳しい中、公表を禁止されていたパール判決文の刊行作業を秘密裏に続け、一九五二(昭和二七)年四月号二八日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本が主権を回復したまさにその日に、本書のもととなる『パール判事述・真理の裁き・日本無罪論』を出版された。そこまでの執念でパール判決を世に問うて来られたのだ。パール判事と東京裁判の真実に関して、田中氏の著書を超えるような本は他にない。だからこそ、本書は長年版を重ねてきたのだろうし、これからも若い人が読み継いで行かねばならない本だとわしは思う。

 東京裁判が、国際法の常識から照らして全く野蛮な復讐劇であり、政治的茶番劇にすぎなかったことはもはや世界で認識されているのに、日本では東京裁判を否定すると、未だに「右翼《とか「戦争を肯定する危険思想《と言われてしまう。こんな風潮は、そろそろはっきり打ち破らねばならない。本書はそのために絶対必要だ。

 例えば「A級戦犯《という言葉がある。靖國神社参拝問題では、この言葉の意味も知らずに批判する者がじつに多かったが、これも東京裁判で作られたものだ。

 戦勝国の検察官は、日本が一九に八(昭和三)年一月一日から一九四五(昭和二〇)年九月二日までの間、一貫してアジアを侵略して支配下に置くための陰謀を企て、その謀議に沿って満州事変、日中戦争、太平洋(太東亜)戦争を引き起こしたのだと主張し、これが裁判の最も重要な焦点となった。そして、この「共同謀議《をした犯人として軍人、閣僚などに十八人を起訴し、これを「A級戦犯《と呼んだ。

 ところがこの二十八人は思想も信条もバラバラで、お互い会ったこともない人までいた。「A級戦犯《の一人、荒木貞夫陸軍大将は「軍部は突っ走ると言い、政治家は困ると言い、北だ南だと国内はガタガタで、おかけでろくに計画もできずに戦争になってしまった。それを共回謀議などとは、お恥ずかしいくらいのものだ《と言った。実際、その間に政権は十八回も交替しており、ドイツが、延々と続いたヒトラーの独裁政権下で謀議を重ねたのとは全く違う。東条英機内閣ですら、議会の反発を受けて総辞職に追い込まれている。当時の日本は国会が機能しており、あくまで憲法に基いてりIダーが選ばれていたのであり、「共同謀議《など皆無だった。

 ところが東京裁判法廷はこんなに明らかな証拠を無視し、被告を強引に「有罪《として七人を絞首刑、十六人を終身禁固刑、二人を有期禁固刑に処した。また、前後して七人が獄死。刑死者と獄死者の十四吊が靖國神社に合祀された。

 一方、禁固七年の有罪判決を受けた重光葵・元外相は、釈放後に再び外務大臣(副総理兼任)になり、一九五六(昭和三一年、日本の国連加盟式典に代表として出席、国際社会復帰の声明文を読み上げ、万雷の拍手で迎えられた。戦勝国に「A級戦犯《とされた者が、戦勝国が作った「国際連合《の場で大歓迎されたのだ。ついでに言えば、この「A級戦犯《を副総理兼外務大臣に起用した総理大臣は鳩山一郎。「A級戦犯を合祀した靖國神社《の首相参拝に大反対した、あの鳩山由紀夫の祖父である。

 死んだ後まで「戦争責任《を問われ、靖國神社から外せとまで言われる「A級戦犯《と、外務大臣として国際舞台に復帰して、握手攻めに遭った「A級戦犯《の差は一体、何だったというのか? これこそ、「A級戦犯《という概念がいかにいいかげんなものだったかという証明であり、ひいては「東京裁判《なるものの本質を如実に大していると言える。死んだ十四人は「裁判《の吊を騙った報復に斃れた戦死者であり、他の戦死者と同様に、靖國神社に祀られるのは当然のことなのだ。

 パール判事はただ一人、日本が戦争に至った経緯を調べ上げ、「共同謀議《など一切なかったことを証明して「全員無罪《の判決を下した。これは決して日本に対する同情心からではない。裁判官の中で唯一の国際法学者として、この東京裁判を認定し、許容すること自体が「法の真理《を破壊する行為だと判断し、こんな「裁判《が容認されれば、法律的な外貌をまといながら、戦勝国が敗戦国を一方的に裁く、野蛮な弱肉強食の世界を肯定することになるという、強い危惧を抱いたためである。

 このパール判事の理念さえしっかり理解して東京裁判を見直していたら、戦後日本の言語空間はもっとまともなものになっていたはずだ。しかも東京裁判を主催したマッカーサー自身が、朝鮮戦争後に米上院で、日本の戦争の動機は「安全保障の必要に迫られてのこと《、つまり自衛戦争だったとはっきり証言し、世界中の学者や政治家も牢獄裁判への疑念を表明している。それなのに、日本人は東京裁判の上正を直視しなかった。戦勝国に押しつけられた東京裁判を自ら受け入れたがる、強者による敗者への復讐を受けたくてしようがない……そんな人間があまりにも多すぎるのだ。

 例えば、「日本はサンフランシスコ講和条約第十一条で裁判を受諾したのだから、東京裁判を尊重する義務がある《と主張する者がいる。だが実際の「サンフランシスコ講和条約第十一条《の条文は「Japan accepts the judgements《……「日本は諸判決を受け入れる《とあるだけで、「裁判《そのものを受け入れたわけではない。ところがそれをねじ曲げ、東京裁判を受け入れるのが平和主義者だという異常な解釈を強引に広めようというマスコミ、知識人がいるのだ。

 本書で田中正明氏も書かれているように、戦後、日本人はどんどん異様に、卑屈になっていってしまったとしか思えない。一体、これらの「歪み《はどこからきたのか。軍部が全部悪かった、自分たちは馴されたのだと、まるで戦前の人間は違う民族であるかのごとくに裁き、戦後の自分たちの拠点を神の視座まで押し上げ、同じ民族を自ら精神的に分断していく。しかも終戦直後よりも、むしろ年が経つごとにその風潮はどんどん加速し、ますます根深いものになってしまったようにわしには思える。「A級戦犯《という言葉のイメージも一人歩きしてしまい、自民党の政治家までがA級戦犯はとにかく悪い人間で、それを靖國神社に祀ってあるから公式参拝反対などと言っている。彼らはパール判決文のような資料は読んでいないだろうし、おそらく読もうとさえしていない。全くの無知から言っているのだ。

 彼らは自らを「平和主義者《だと思っている。

 だが、軍事力でねじ伏せた相手に、一方的な戦勝国の論理を押しつける「裁判《のどこが平和主義なのだろうか? それは、野蛮な弱肉強食の国際社会を肯定する「軍国主義《に他ならないではないか。

 パール判事は、「真の国際法秩序《を確立したいと願っていた。国際社会を普遍的な法の下に秩序づけなければ、戦勝国の復讐やリンチがまかり通る弱肉強食の世界を超えられない。そう考えていたのだ。パール判事こそが、本物の理想主義者、平和主義者だったのである。

 真の理想主義者、平和主義者の目に映った東京裁判は、野蛮な復讐のための見せしめでしかなかった。それを認めない限り、とても日本は平和主義国とは言えまい。

 東京裁判の論証を試みようとするだけで右翼と決めつけられてしまう戦後日本の風潮……。一体、本当の意昧での平和主義とは何なのか、戦勝国の裁判を受け入れることが平和主義につながるのか。本書を読んで、それをもう一度考えてみてほしい。

 この本には、戦後世代を覚醒させる力がある。