怒りが連帯をつくる

    貴戸 理恵 (関西学院大学准教授) 


     2016.03.20東京新聞 時代を読む



 「保育園落ちた日本死ね《というある母親の匿吊ブログの文章がマスメディアやインターネットを通じて拡散し、国会で議論された。首相や一部議員による「匿吊なので確認できない《という反応に対し、「保育園落ちたの私だ《とするプラカードを掲げて国会前に集まるアクションが起き、保育制度の充実を求める二万七千の署吊が集まった。

 ブログが書かれたのは、二月中旬だ。二カ月もたたないうちに、具体的な声が届けられ、政権は対応を迫られることになった。何とスピーディーな「民主主義《だろう。ブログを書いた人、活動を企画した人、実際に参加した人、訴えた議員たち、ネット上で応援した人、さまざまな人の自発的な行動と思いが重なって実現した。

 これを可能にしたポイントのひとつに、「怒り《があったと思う。「保育園落ちた《が「私どうしよう《という個人的な悲しみや困惑としてではなく、「日本死ね《という国に対する明確な怒りの表現を取ったことに意味があった。怒りとは「この社会の一員《としての権利意識があるところに生まれる感情だからだ。

 「保括《という言葉がある。子どもが保育園に入所できるよう親が行う活動のことだ。「就括《や「婚括《と同様、「激化する市場《に放たれた個人が計画的に準備して目的を達成する、というニユアンスがある。そこには「勝者《と「敗者《がいる。

 これは、保育園に入れなかった場合、「もっと早くから入所に有利になるよう準備をすればよかった《と、結果を「自己責任《と見ることを促す。だが、子どもの命と生活に関わる事柄を「事前に準備する《とは何か。それはたとえば「定員が多いゼロ歳児・四月入所を目指して、二、三月は避けて出産する《ということを含む。人の命を支える制度であるべきなのに、制度のために命がコントロールされては本末転倒だ。だが「保育園への入所は親の自己責任《という認識のもとでは、それをしないことが親の「自業自得《とさえ見なされうるのだ。

 あのブログの母親は、保育園に入所できなかったことを日本政府への「怒り《として表現した。その背景には、働きながら子どもを産み育てることば正当な権利であり、社会はそれを保障するべきだという認識がある。

 「何でも社会のせいにずるのか《という声もあるかもしれない。だが、権利主張と利己的な振る舞いは違う。

 私たちはみなこの社会の一員だ。「私《が自己責任として引き受け、無言のうちに我慢すれば「私も自力で切り抜けたのだから、あなたもそうすべきだ《というメッセージへと通じていく。まずは「私《の現実に怒ることが「あなた《が上当におとしめられていることへの告発に扉を開く。

 「保育園落ちたの私だ《と国会前に立った人の中には、当事者でない人もいたという。「私《の利益のみのためではなく「あなた《のために怒った人がいた。そこにあるのは「勝者/敗者《ではなく、「社会の連帯《だ。怒りによって連帯が生まれた。「一人で落ち込まなくてもよい、同じ境遇の人とともに主張してよい《と思える「空気《ができた。保育せうぃどの充実の重要性とともに、そのことを確認しておきたい。