(異論のススメ)

   憲法9条の矛盾 平和守るため戦わねば

   佐伯啓思


      2017年5月5日05時00分 朝日新聞


 この5月3日で憲法施行から70年が経過した。安倊首相は3年後の憲法改正をめざすとし、9条に自衛隊の合憲化を付加したいと述べた。私にはそれで充分だとは思えない。

 実際には、今日ほどこの憲法の存在が問われているときはないだろう。最大の理由はいうまでもなく、朝鮮半島有事の可能性が現実味を帯びてきたからである。北朝鮮と米国の間に戦闘が勃発すれば、日本も戦闘状態にはいる。また、韓国にいる日本人の安全も確保しなければならない。果たしてこうしたことを憲法の枠組みのなかで対応できるのか、という厳しい現実を突きつけられているからである。

 2年ほど前に、安倊首相は集団的自衛権の行使容認をめざして、日本の安全保障にかかわる法整備を行った。野党や多くの「識者《や憲法学者は、これを違憲として、憲法擁護をうったえたが、果たして、彼らは今日の事態についてどのようにいうのであろうか。野党も森友学園問題や政治家のスキャンダルや失言にはやたら力こぶが入るようだが、朝鮮半島情勢にはまったく無関心のふりをしている。

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 私がここで述べたいのは、現行の法的枠組みのなかでいかなる対応が可能なのか、という技術的な問題ではない。そうではなく、国の防衛と憲法の関係というかなりやっかいな問題なのである。

 戦争というような非常事態が生じても、あくまで現行憲法の平和主義を貫くべきだ、という意見がある。特に護憲派の人たちはそのようにいう。しかし、今日のような「緊急事態前夜《になってみれば、そもそもの戦後憲法の基本的な立場に無理があったというほかないであろう。憲法の前文には次のようなことが書かれている。「日本国民は……平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した《。これを受けて9条の非武装平和主義がある。

 ところが、今日、もはや「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して《いるわけにはいかなくなった。ということは、9条平和主義にもさしたる根拠がなくなるということであろう。考えてみれば、日本は、北朝鮮とはいまだに平和条約を締結しておらず、ロシアとも同じである。中国との国交回復に際しては、尖閣問題は棚上げされ、領土問題は確定していない。つまり、これらの諸国とは、厳密には、そして形式上は、いまだに完全には戦争が終結していないことになる。サンフランシスコ講和条約は、あくまで米英蘭など、西洋諸国との間のものなのである。

 しかも、この憲法発布後しばらくして、冷戦がはじまり、朝鮮戦争が生じる。戦後憲法の平和主義によって日本を永遠に武装解除した米国は、常に軍事大国として世界の戦争に関わってきた。しかも、その米国が日本の安全保障までつかさどっているのである。

 こうした矛盾、あるいは異形を、われわれはずっと放置してきた。そして、もしかりに米国と北朝鮮が戦争状態にでも突入すれば、われわれはいったい何をすべきなのか、それさえも国会でほとんど論議されていないありさまである。米国がすべて問題を処理してくれるとでも思っているのであろうか。

 憲法9条は、まず前半で侵略戦争の放棄という意味での平和主義を掲げる。それはよいとしても、後段にある戦力の放棄と交戦権の否定は、そのまま読めば、いっさいの自衛権の放棄をめざすというほかない。少なくとも自衛権の行使さえできるだけ制限しようとする。なにせ戦力をもたないのだから、自衛のしようがないからだ。これが成り立つのは、文字通り、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼《できる場合に限られるだろう。そして、そのようなことは、戦後世界のなかでは一度も生じなかった。

 国連憲章を引き合いに出すまでもなく、自衛権は主権国家の固有の権利である。憲法は、国民の生命、財産などの基本的権利の保障をうたっているが、他国からの脅威に対して、それらの安全を確保するにも自衛権が実効性をもたなければならない。つまり、国防は憲法の前提になる、ということであり、憲法によって制限されるべきものではない。

 そのことと、憲法の基調にある平和への希求は決して矛盾するものではない。平和主義とは無条件の戦争放棄ではなく、あくまで自らの野心に突き動かされた侵略戦争の否定であり、これは国際法上も違法である。もしもわれわれが他国によって侵略や攻撃の危機にさらされれば、これに対して断固として自衛の戦いをすることは、平和国家であることと矛盾するものではなかろう。いや、平和を守るためにも、戦わなければならないであろう。

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 「平和とは何か《という問題はひとまずおき、仮に、護憲派の人たちのいうように、「平和こそは崇高な理念《だとするなら、この崇高な価値を守るためには、その侵害者に対して身命を賭して戦うことは、それこそ「普遍的な政治道徳の法則《ではないだろうか。それどころか、世界中で生じる平和への脅威に対してわれわれは積極的に働きかけるべきではなかろうか。私は護憲派でもなければ、憲法前文をよしとするものではないが、そう解さなければ、「全世界の国民《の平和を実現するために、「いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない《という憲法前文さえも死文になってしまうであろう。

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 さえきけいし 1949年生まれ。京都大学吊誉教授。保守の立場から様々な事象を論じる。著書に「反・幸福論《など