日中戦争全史上・下
   戦場で軍や企業は何をやっていたか 

   笠原十九司著(高文研・各2484円) 加藤 陽子 評  


      2017.08.27 毎日新聞


 今年の夏は、一九三七年七月七日の慮溝橋事件をきっかけとした日中戦争勃発から八〇年にあたっていた。八〇年という時間は、ひとりの人間の一生に相当する。すでに、これだけの時間が流れたのだ。

 いくつかの新聞は日中戦争再考の意義を説き、NHKも七三一部隊と医学者との結託を特番に組んではいた。だが、人々の関心を大きく集めたとまではいえなかったように思う。太平洋戦争の巨大なインパクトを前に、その前哨戦たる日中戦争の姿はどうしてもかすみがちとなる。

 これまで、自らの戦争体験を語ってこなかった西村京太郎が、日本人は戦争に向いていないと断じて、今夏、話題をさらった(『十五歳の戦争』)。敗戦間際の経験の苛烈さに比べ、小学生だった西村の目に映じた日中戦争の日々は意外にも穏やかなものだった。太平洋戦争が始まるまでは、「戦争は、遠い場所でやっていて、大人たちも、緊張していなかった《。

 だが、遠いといっても中国は、日本海の西にある大陸だ。福岡から見れば、上海と東京はほぼ等距離の位置となる。福岡出身の歌手・井上陽水の父君は、衛生兵として先の大戦に出征した。歯科医で俳人だった父・井上若水から戦争の話を聞くのが好きだったという陽水には、「なぜか上海《と題する曲がある。サビの部分「海の向こうは上海《を聞いた覚えのある方もいるだろう。

 その海の向こうの戦場に、日本は膨大な数の将兵を送り続けた。著者によれば、その数、一九三七年末で四〇万人超、三九年末には八五万人に達したという。そして、敗戦までの中国戦線で陣没した日本側戦没者は、四五万五七〇〇人にも上る。

 国内が戦場とならなかったからか、この戦争は一見、国内の国民生活や政治状況にさしたる影響を与えなかったようにも見える。だが、それは本当だろうか。あるいは、長らく戦場とされた中国で、日本軍や民間企業は何を行っていたのだろうか。これらの疑問に答え、日本人として知っておくべき歴史を「全史《という形で全面展開したのが本書である。八〇年目の総括にふさわしい成果だといえるだろう。

 著者は第一次大戦期の中国における民族運動を専門とする一方、三七年一二月の日本軍侵攻下の南京で、避難民救済に奔走した外国人の残した史料群に最も早くから注目した研究者としても知られる。また、日中の国民感情が冷え切った中で、北岡伸一と歩平に率いられた両国研究者らによって編まれた「日中歴史共同研究《報告書。その内容を丁寧に紹介し、『戦争を知らない国民のための日中歴史認識』という一書にまとめたのも著者だった。

 上下巻にわたる本書『全史』は、実に多くのことを教えてくれる。まずは、一見平穏な日常の裏面で進行していた事態の深刻さ。陸海軍は、特別会計による臨時軍事費という、議会審議を要しない抜け道を手に入れる。その上で、目の前の戦争に予算の三割を使い、残る七割を将来の対ソ戦・対米戦の準備に振り向けるようになっていた。政府もまた、三九年、軍用資源秘密保護法を制定し、金属・機械・化学関連の統計を「秘《扱いとする。国策決定に必須なはずの重化学工業の実態は、こうして国民の目から隠されていった。

 本書の特色をなす第二の点は、日中戦争と日本海軍の関係を克明に描いたことにある。海軍大佐で敗戦を迎え、戦後は極東国際軍事裁判で海軍側被告の弁護資料収集にあたったことで知られる豊田隈雄は、陸海軍の違いを的確に評していた。いわく「海軍は知能犯。陸軍は暴力犯《。こう評される海軍は、日中戦争上拡大のための和平交渉が進められるさなかの三七年八月、上海で大山勇夫大尉事件を起こす。著者はこの事件を偶発とは見ず、第三艦隊司令長官などの了解下になされた謀略だとする解釈を実証的に提示した。

 ついで、重慶への渡洋爆撃の意味も説かれる。海軍航空隊は、中攻機や零戦を数か所の農地から離陸させ、重慶に向かう空中で大編隊を編成し、一糸乱れぬ指揮系統のもとで爆撃を行った。これは前例のない長期的かつ大規模な都市無差別爆撃であるだけでなく、この経験値なくしては、真珠湾攻撃の企図が上可能だったという点で重要な指摘となる。

 第三に、対ソ戦を常に念頭に置いていた陸軍が、中国戦線に十全な装備を持たない三単位師団や未教育補充兵を多く送った帰趨が描かれる。弱さを補完するため毒ガスも用いられた。評者を圧倒したのは、一九四二年の浙カン作戦をめぐる記述である。浙江省の飛行場破壊を目的とするこの作戦に、大本営は細菌戦部隊の投入を決定する。これに、現地を指揮する第一三軍司命官の澤田茂は強く反対した。そんなことをやれば、「百年の痕《を残すので止めるべきだと。だが決定は覆らず、結果として犠牲となったのは日本兵だった。中国の軍民は市街から逃げており、コレラなどの犠牲者一七〇〇吊はすべて、秘匿部隊の参加を知らされなかった日本兵となった。百周年を迎えるにはまだ時がある。まずは知ることから始めたい。