(神奈川の記憶:110)/神奈川県

  冷戦を越えたピンポン外交
   独自の憲章、交流を後押し

   朝日新聞神奈川版 渡辺延志

    2018.05.05 朝日新聞神奈川版




 朝鮮半島をめぐる情勢が動き出している。2月の平昌冬季五輪を転機に、スウェーデンで開催中の卓球の世界団体選手権では韓国と北朝鮮の南北合同チームが誕生した。膠着した国際政治にスポーツが歩み寄りの場を提供したのは今回だけではない。思い出すのは冷戦下のピンポン外交。横浜では1974年にアジア卓球選手権があった。たどってみよう。

 始まりは71年の吊古屋での世界卓球選手権だった。国際社会から遠ざかっていた中国の参加が実現した。

 大会中に米中の選手の間で交流が始まり、敵対していた中国が米国選手団を招待。それを呼び水に72年にニクソン米大統領、田中角栄首相が訪中し、国交回復へと進展した。

 なぜ卓球に、それが可能だったのか。背景に国際卓球連盟(ITTF)の独自の思想が見える。

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 ITTF会長をつとめた荻村伊智朗(32~94年)の自伝によると、(1)国旗・国歌を使わない(2)加盟は国単位ではなく協会単位。協会は国と国にまたがっても、国の中で分割されていても構わない――を連盟創立以来の憲章としていた。

 横浜アジア卓球選手権は中国が国際社会に復帰した段階で迎え、「卓球はアジアを結ぶ《がスローガン。

 飛鳥田一雄市長(在任63~78年)のブレーンだった鳴海正泰さん(86)は「日本と国交のない国・組織の代表団の入国や扱いが課題でした《と振り返る。

 北朝鮮、北ベトナム、ラオスといった国で、中でも難しかったのは南ベトナム解放戦線だった。「入場行進の国吊表記をめぐり、法務省は〈南越〉にしろという。解放戦線は〈ベトナム南方共和〉でなければ帰国すると主張する。最終的に〈Republic of South Vietnam〉と英文にし、末尾に卓球協会を意味する〈TTAU〉を添えることで乗り切りました《と鳴海さん。

 飛鳥田市長の退任後、鳴海さんは市役所を去り関東学院大教授となり、親しくなった荻村の要請で日本卓球協会の役員になった。

 「一緒に行ってくれ《と鳴海さんが荻村に訪中を誘われたのは85年。千葉で91年に開催する世界選手権で韓国と北朝鮮の統一チームを実現したいとの構想を荻村は抱いていた。北朝鮮は83年にはミャンマーで韓国大統領を狙った爆弾テロを起こしていた。課題は多く、まず中国の意向を確認したいとの考えだった。

 北京に到着したのは8月下旬。中国側は荻村の提案に賛同。そればかりか「今からすぐ北朝鮮へ行け《と手配してくれた。

 翌日、平壌に向かい、交渉が始まった。統一チームの提案には「検討しましょう《との返事。「事件は起こさないでほしい《と求めると、「起こしたことはない《との反応だった。

 自由に使っていいと運転手付きで高級車を提供してくれた。初日の交渉を終え街に出た。どの店もがらんとしていて物がなかった。

 2日目の話し合いが終わったのは夕方5時で案内役が帰ってしまった。日本人だけで外出しようと、「一番にぎやかな街へ行ってくれ《と運転手に頼んだ。

 前日はがらんとしていた大通りに出た。街灯がつき両側に店が並んでいた。人がたくさんいて、腕を組んだカップルも歩いていた。

 冷麺店を見つけ、入ろうとしたら追い返された。少し先にまた冷麺店があった。外から見ると着飾った客が数人座っていたが、入り口でまた追い出された。

 店内には机と椅子があるだけで、それ以外は何もなかった。映画のセットのように表の見えるところだけの急造の繁華街だった。

 運転手に聞くと、「よくあること《という。韓国の赤十字代表団が訪問中で、バスでそこを通る予定だと日本語のできる運転手は説明してくれた。

 「とんでもないものを見てしまった。見なかったことにしようと荻村と決めた《と鳴海さん。翌日、行くと何もなくなっていた。「人生で一番驚いたこと。ずっと秘密にしてきましたが、もういいでしょう《と取材に明かしてくれた。

 千葉では史上初の南北統一チームが実現した。「荻村の熱意と見識が可能にしました。本当に立派な友人でした《と鳴海さん。

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 ピンポン外交の背後には米中両国の事情があったことが明らかになっている。ソ連との国境紛争を抱える中国はソ連に抵抗するパートナーが必要だった。米国は泥沼のベトナム戦争への新たな展望を求めていた。

 今日の情勢でも、冬季五輪を契機にした展開の背後に何があるのかに目を凝らすことが必要だろう。見せかけの街まで用意させた状況や思いのどこが、どう、なぜ変わったのだろう。

 なおITTFは五輪種目となるために85年に憲章を改定し、「国旗・国歌を使わない《は姿を消した。

 (渡辺延志)


ピンポン外交の立役者だった荻村伊智朗。79年に国際卓球連盟の会長代理になり、87年に会長に選出された。選手としても「卓球ニッポン《の大黒柱として活躍し、世界選手権で12のタイトルを獲得した