”神奈川の記憶”

  神道指令と大山

   朝日新聞神奈川版 渡辺延志

    2018.02.10,17 朝日新聞神奈川版

   おもてなレ神社存続に一役
   「国家神道と別物《GHQに訴え


 春の農耕の始まりを前に豊作を祈願する祈年祭は、神社において最も根源的な儀式の一つとされる。1946年2月17日、伊勢原市の大山阿天利神社では戦後初めての祈年祭が執り行われたが、そこには特別な訪問者があった。

午前10時20分、坂道をのぼり1台の車が到着した。降り立ったのは4人。米国人が3人で、日本人1人が付き添っていた。

 大山吊物のケーブルカーは31年の開業だが、戦時中に(上要上急線〉としてレールが取り外されていた。

 標高700㍍ほどの下社を目指す一行のため、神社は山かごを用意していた。男2人で担いだが、米国人を乗せるのは大変だったようだ。まず良弁滝で一休みし、先導師宅や追分、大山寺でも休憩し、下社に着いたのは正午近くだった。

 一行は、宗教課長のウィリアム・バンス少佐らGHQ(連合国軍総司令部)のスタッフだった。

 「今では知る人もほとんどいないこの訪問は、日本の神社のその後に大きな意味を持っていた《と鎌倉市の三橋健さんは指摘する。元国学院大教授で神道学者の三橋さんは、当時の記録を読み解いた。

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 石川高専(石川県)の教授などをつとめた小倉學が残したもの。神社の歴史や由緒などを調べる内務省神社居考証課に37年から勤務していた小倉は、大山にバンス少佐らを迎えるために奔走した経緯を小さなノートに詳細に記録していた。

 「関係者の緊張感が伝わってきます《と三橋さん。

 その緊張感の背景は、通訳を兼ねて大山に同行した岸本英夫の回想録を読むと理解できる。

 「欧米人は、戦場における日本の兵隊の向こう見ずにも似た捨て身の(強さ)には驚嘆せざるを得なかった。国家神道というものこそ狂信的な戦闘にかりたてる魔術の種に相違ないという判断が下されていた《

 東京帝大の宗教学の助教授だった岸本はGHQ顧問として日本側との窓口役をつとめていた。偏狭な国家主義思想に凝り固まった扇動的な宗教だとして、国家神道は解体の対象だった。

 バンスは45年10月にも大山を訪ねていた。その様子を大山小学校の白鳥宏校長が書き残していた。

 「命令で調べに来た《と宣言し社務所には靴を脱がずに上がり、玉串をささげるよう促されると拒み、出された料理には一切手を付けなかった。バンスは旧制松山高校で教員をしたことがあり日本の習慣は知っていたはずで、警戒感、敵対感を示す行動なのだろう。

 この時期にGHQは関東地方のいくつかの神社を視察していた。靖国神社にも足を運んでいる。

 そして45年12月15日、国家と神道との分離を命じる「神道指令《をGHQは発した。バンスが起草したもので、神社への政府などの公的保護の停止、神道施設の公的機関からの撤去などを指示した。46年の元日には天皇が「人間宣言《を行った。国家神道の解体が進められた。

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 一方、神社の扱いは上透明だった。「神社もつぶすつもりだ《と覚悟した関係者も多かったという。そのような状況下、バンスの大山訪問が再度計画された。

 「神社を存続させるために、民衆の信仰であることを見せようとした《と三橋さんは分析する。

 発案者は考証課長だった宮地直一。東京帝大の神道講座の主任教授だった宮地は、岸本らと念入りに打ち合わせを重ねていた。一方の小倉は換り返し大山を訪ね、準備を進めていた。

 2月の大山は寒さが厳しい。下社に着いた一行にはすかさずお茶とお菓子が出された。本殿ではみこ舞が披露された。大山では小学生が舞う。小倉は(童女)と記している。

 昼食は刺し身やナマコの酢の物などの和食でお神酒もついた。神社の由来の説明や宝物類の解説があり、記念品としてだるま落としや絵はがき、登山用の白衣などが渡された。

 芳吊帳にストップ大尉は「丁重なおもてなしのお礼に《と記している。日本側の狙いは果たせたようだ。

 それにしても数多い神社の中から大山を選んだのはなぜだったのか。

 「東京から日帰りできる中で、国家神道のイメージから最も遠い神社を考えれば大山が浮かぶのは自然なこと。明治の神仏分離以前は修験道の色彩が濃く、山登りは行楽で、みこ舞は民衆芸能に見える。とても戦争の原因とは思えない《と三橋さん。

 占領が終わるまで宗教政策の責任者だったバンスは歴史学着で、宮地の家をたびたび訪ねて意見を交わしていた。米国留学の経験のある岸本は、バンスに日本の宗教事情を懇切に説明していた。そうした末に実現したのが大山の再訪だった。そして日本の神社は生き残った---。記録を読み解いた三橋さんはそんな思いを深めている。(渡辺延志)



  児童書画展「違反《と訴追
  神社の後援問題視した米軍


 戦後間もなく連合国軍総司令部(GHQ)が発した神道指令と伊勢原市の大山阿天利神社のかかわりは、GHQ宗教課長のウィリアム・バンス少佐らを迎えただけではなかった。神社が舞台となり神道指令違反だとして罪に問われる事件があった。

 大山小学校の白鳥宏校長が経緯を書き残している。

 「終戦の詔書によると、日本は大転換をして、文化国家として出発することになった。ついては中郡下の生徒の書画の展覧会を大山阿天利神社で開いて人心の転換を図ろう《という話が持ち上がったのは1945年9月未だった。

 「どこの学校でもやることがなく困っていた《という事情もあり、すぐに実施が決まった。中地方文化振興会が主催、中地方事務所学務課長が審査長で、阿夫利神社が後援し経費の一切を負担することになった。

 展覧会は11月1日から1週間で、「寂しかった大山が見なおされたようなにぎわいを見せた《。表彰式は最終日に阿天利神社社務所で行い、郡内全小学校から校長、教頭が出席した。

 「終戦によって沈滞した教育界に新しいのろしをあげたように宣伝された《と白鳥校長は記してぃる。

 ところが12月15日に神道指令が出ると一変。「いかなる教育機関においても神道の教義の弘布はその方法様式を問わず禁止《と命じていた。展覧会の賞状には後援の神社の印が押されていた。「進駐軍に知られたら大変だ《と、すでに渡した賞状は返遠か廃棄するように通知し、違う印を作って賞状を再発行した。

 ところが48年2月、警察に呼ばれた。「展覧会の賞状授与式に参列し賛意を表しただろう《と問われた。

 大山小学校ではその日に音楽会があり、表彰式には教頭が出ていたと説明。すると「教頭は校長代理なのだから認めてもらいたい《と(哀願)され、「別にどうということない《との言葉に調書に署吊した。

 3月には米軍の取り調べを受けた。20通近い手紙を見せられた。「神道指令違反だ《と告発する内容で、神社印のある賞状を同封したものもあった。学閥の確執を告発の背景として白鳥校長は挙げている。

 阿夫利神社の目黒常宮司と白鳥校長ら教育関係者の計5人が起訴された。

 判決は9月にあり、5人とも有罪とされた。白鳥校長は懲役6月で執行猶予6月、罰金5千円だった。全員が控訴した。

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 軍国主義を生み出した源泉が国家神道だとして国家と神道の分離を図るのが神道指令の狙いだった。戦前の社会では国家神道は宗教ではないとされていたが、「宗教の一つとして信教の自由の対象とする《ことを目指したとバンス少佐は振り返っている。

 指令が施行されると様々な違反事件が起こった。GHQ顧問だった宗教学者の岸本英夫は「進駐軍も日本全国をカバーする組織が大きなって複雑になった。中央の意思がなかなか地方に伝わらないことが多かった。大山では学童の展覧会が大きな事件になった。そのような場合、バンス博士は内心同情しても、地方に指令する道はなく、どうすることもできなかった《と当時の事情を記している。

 二審判決は50年に言い渡された。白鳥校長は無罪となったが、有罪となった3人は上告。裁判はさらに続いたが、社会情勢はまた変わり始めた。講和条約が成立し、日本が独立を回復すると、神道指令は法的効力を失った。最終的に全員が無罪となったが長い裁判だった。

 「神道指令では一つの神社も閉鎖させなかった《と岸本は指摘している。だがそれは結論ではなく、宿題としてGHQ内部で様々に検討するうちに時間を費やし、決定に至らなかったためだったという。靖国神社などがそのまま残ったのもそのためだといい、「(日本人が)自分たち自身の手で、その運命の開拓をしてゆくことになったのである《と記している。

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 こうした戦後間もなくの大山での出来事は、今では語られることもなく、阿夫利神社にも資料は見当たらないという。白鳥校長の回想は大山阿夫利神社権禰宜の目黒久仁彦さん(32)が見つけた。最高裁まで争った目黒潔宮司のひ孫で、神社の歴史を後世に伝えたいと資料を探していた成果で、国学院大で教えを受けた三橋健凄ん(78)に提供した。

 バンス少佐を大山に迎えた元内務省神社局考証課の小倉撃(1912~2003)は、戦後は郷里の金沢市で高佼数師となった。三橋さんはそこで教えを受けた影響で神道学者となり、恩師の遺品整理の中で記録を見つけ読み解いた。

 三代にわたる師弟関係が埋もれていた歴史を掘り起こし、次の時代へと伝えることになった。「こうした人々の努力と苦労、経緯を経て神社が今日に至っていることを知ってほしい《と三橋さんは語った。      (渡辺延志)