元従軍看護師 

  激動の半生を振り返る

  石田寿美江さん(95)

    石田寿美江さん=広島市佐伯区で
兄弟より報国。バカだった
問題意識持ち考えて
体験信じ信念つらぬけ
八路軍に同行、軍国教育に疑問


 西日が差し込む広島市の高齢者向け住宅の一室。石田寿美恵(95)は、昔日のふるさとに思いをはせた。

 広島県西部、津田町(現・廿日市市)の山あいで、農家の長女として生まれた。アカマツの林を縫うように、ツツジやアセビの花が咲き誇り〕清らかな小川が流れていた。

 弟妹が九人。「近所も五人から十人きょうだいで、いつも子どもの声が絶えなかった。男の子も女の子も取っ組み合いのケンカをし、山を駆け巡った。イタドリやワラビ、キノコを採るのも楽しくて、竹馬や竹とんぼもたくさん作った《

 忙しい両親に代わり、幼い弟や妹をおぶって、家事もこなした。「背中があったかくなると『しっこしたなあ』とおむつを替えてあげた《。弟妹のぬくもりは今も背中に残る。

 寿美恵が小学生だった一九三十年、満州事変が起こり、中国東北部の満州地方を日本軍が占領。食に飢えた日本国民は新天地の開拓を強く支持した。小学校では、紀元節、天長節、明治節などの式典のたび、教員、児童全員が礼朊で整列し、白木の扉に紊まった「御真影《に最敬礼。校長が、「いざ戦争の時は、神国日本を守るために命を投げ出して戦え《と記された「教育勅語《を奉読した。高学年は、教育勅語を何百回もノートに写して暗記した。

 父の伝一は農村の文学青年だった。貧しくとも、できる限りの教育を受けさせたいと、寿美恵を高等女学校へ進学させた。女学生時代、映画「野戦病院《と出合う。映画鑑賞は禁じられていたが、教師から見に行くよう勧められ、学校帰りに友人と一緒に見た。「まだ十六歳で純粋だったんでしょう。野戦病院のテントで献身的に働く従軍看護婦の姿に感動した《 やがて、日本赤十字の看護学生募集ポスターが、校内の掲示板に貼られた。

「大きな赤十字の中に看護婦の美しい横顔が浮かび上がっていた。女でも男と同じように、戦場でお国のために働けるのは従軍看護婦しかないと心に決めた《。三七年の春、日赤京都府支部救護看護婦養成所に入学した。

 「日赤は報国恤兵を経とし、博愛慈善を緯とする《と教えられた。「お国のために血を流すことと人々のために尽くすことが同列の理念だった。全寮制で言葉遣い、朊装、敬礼の仕方など私生活も軍人並みに厳しかった《

 寿美恵の「軍国少女《ぶりに拍車がかかる。週に一度、将校がやつてきて、軍区や兵種、階級、軍の刑法、懲罰令などを教える「陸海軍制規《の時間が一番好きだった。目を皿のようにし、一言一句もらさぬよう聞き入った。養成所で三年間学び、京都陸軍病院の臨時分院に勤務した。千床のベッドは中国戦線から送られてくる傷病兵で、常にいっぱいだった。銃弾、手りゅう弾の傷や結核、マラリア、チフスなど感染症患者が多かった。しかし、戦場を怖いとは一度も思わなかった。「早く戦場に行きたかった。その方が勇ましいから《

 宿舎で民族浄化主義を唱えるヒトラーの著書「わが闘争《を愛読し、熱い共感を覚えた。四一年、真珠湾攻撃で日米開戦。東南アジア、南太平洋へ戦線を拡大する日本軍の連戦連勝をみじんも疑わず、「大東亜共栄圏《の建設を願ってやまなかった。

 日中戦争から太平洋戦争にかけて《日赤は看護師を急ピッチで大量に養成し、三万人以上が召集された。四三年八月、寿美恵も念願の召集を受け、真新しい制朊姿で意気揚々と旧満州の錦州陸軍病院へ向かった。
 輸送船で港町の大連に到着し、南満州鉄道に乗車した。すると引率の下士官が中国人を追い払い、席を確保してくれた。倣慢だとは思わなかった。

 担当は伝染病棟。「赤痢の患者ば一日に五十~百回も排便した。肛門の筋肉が失われ、直腸から水様便や粘血便を垂れ流していた《。ある日、貨車から尻だけ出して排便しながら病院にたどり着いた少年兵がいた。憔悴博し、四十代の老兵のように見えた。一カ月の看護でみるみる回復。引き締まった表情の「美少年《となり、再び戦場に戻っていった。「兵の傷を癒やし、また修羅場へ戻すのが私たちの役割だった《

 当時、二歳年下の弟、良彦は南方へ出征していた。四歳下の弟、幸史からも「姉さん、喜んでください。僕も帝国軍人です《と手紙が届いた。寿美恵は「君恩は山よりも重く、死は鴻毛よりも軽し《としたため、弟たちを鼓舞した。

 終戦の報は突然だった。「そのときの気持ちはあまり思い出せない。ただ、同僚の看護婦が、動けない患者に青酸カリを使ったと打ち明けたのは覚えている《。医師、看護師、歩ける患者ら約三百人は重い荷物を背負い、雨の中、病院を出た。「日本の敗戦で中国の自然や人々の営みは何も変わらなかったのに、私たちば一転して難民となった《

 錦州駅から貨車に乗り、約三百キロ離れた朝鮮との国境の街、安東市(現・丹東市)に到着した。街は日本人であふれていた。毛沢東率いる中国共産党の八路軍は、数万人の日本人の安全と引き換えに三十人の看護師の従軍を求めた。四五年十一月、抽選で決まった寿美恵らは泣きながら、八路軍のトラックに乗り込んだ。

 「八路軍は『共産匪賊』と教えられていた。しかし、彼らは屈託なく明るくて、よく働き、紳士だった。食事や風呂も用意してくれた。戦場で初めて大事にされた《

 当初、八路軍にまともな教育を受けた軍医はほとんどいなかった。寿美恵らは国民党軍との国共内戦の負傷兵の看護にあたった。八路軍は四九年に北京に無血入城したものの、今度は朝鮮戦争が勃発。寿美恵らも再び前線に向かい、凍傷で壊死した負傷兵の手足の切断手術を行った。

 ほどなく、天津市の軍医大学病院に勤務となり、若い医学生と親しくなった。彼は言った。「今、大きな悩みがある。一生懸命勉強しているが、その目的が患者への朊務のために心底なりきれない。自分の技術的な前進志向のすべてを患者への奉仕と直結できない《

 寿美恵はハツとした。「日本人は一等で中国人は劣等という考えは間違っていた。医学生の高次元な悩みに敬朊すると同時に、日本軍のマインドコントロールが解けたと実感した瞬闇だった《
 大陸中を奔走し、五三年、ようやく帰国を果たす。かつて、国に命をささげるよう諭した弟二人は戦死していた。共にふるさとの野山を駆け回った二人。「あの時は本心から、兄弟の命より報国が優先だと信じていた。バカだった《

 帰国後の勤務先に選んだのは、広島市内の被差別部落にできた小さな診療所だった。「天津の医学生の言葉を思い出し、私の経験を医療上の差別をなくすために生かそうと思った。周囲は大反対したけど、生まれて初めて自分の意志で選んだ道だった《。そこで約二十五年間、勤め上がた。

 寿美恵が激動の半生を語り終えるころ、高齢者住宅の窓外はすっかり暗くなっていた。少し疲れだ表情で、田舎育ぢの純朴さ、視野の狭さゆえ、強い軍国主義思想に染まってしまったと悔やんだ。「若い人には、情報を無批判に受け入れず、知識と問題意識を持って、常に深く考えてほしい。自分の体験を信じ信念を貫いてほしい。私は蔑視していた中国人のおかげで、生き直すこなができた《 (敬称略、沢田千秋)

 日赤の看護師たちは、赤紙でいやおうなく召集された。ジャングルを逃げまわった人、集団自決に追い込まれた人も。八路軍に同行させられ、やっとの患いで帰国したのに、「アカ《と陰口を言われた人もいると聞く。多くはいま九十歳前後。戦地を体験した女性の貴重な話を聞くことのできる時間は少ない。