八月十五日の石橋湛山―リフレと小国主義による日本の再生

   街角経済学 田中秀臣


     2017年08月15日(火)11時30分 Newsweek

<北朝鮮など近隣諸国との軍事的緊張の中にあり、またデフレからの完全脱却までもうひと押しの状況にもある。石橋湛山が八月十五日に、新しい日本の針路とした小国主義とリフレ主義は今も重要な指針となる>


石橋湛山(1884*1973)は、戦前・戦後にわたって活躍した言論人・ジャーナリストであり、また戦後は政治家としても活動し1956年には内閣総理大臣にまでになった。石橋の主張は、リフレ主義(デフレを脱却して低インフレ状態で経済を活性化する政策)や、「小国主義《を安全保障の観点から採用するものだった。

小国主義とは、1921年のワシントン軍縮会議を契機にして、当時の日本の椊民地やその獲得の野心の放棄を唱えた。「朝鮮、台湾、満州を棄てる、支那から手を引く、樺太も、シベリアもいらない《「一切を棄つる覚悟《で、軍縮問題に挑むことを主張した。当時としては絶対的少数派の意見といえた。

経済合理的な判断での小日本主義

この小日本主義の主張は、単にイデオロギー的なものではない。石橋は椊民地の維持や獲得にかかる費用と便益を比較し、経済面でもまた軍事面でも国民の益に貢献しないと客観的なデータを駆使して論じたことに特徴があった。いわば経済合理的な判断での椊民地の全面放棄を唱えたのである。椊民地を放棄すれば、それに応じて軍事費が削減でき、可処分所得が増加することで民間投資も増加すれば国内経済は発展する。軍事部門という(長期的には)上生産的な部門に、人やお金をムダに割り振ることをせずにすむだろう。


「さればもし我が国にして支那またはシベリヤを我が縄張りとしようとする野心を棄つるならば、満州、台湾、朝鮮、樺太等も入用ではないという態度に出づるならば、戦争は絶対に起こらない。従って我が国が他国から侵さるるということも決してない。論者は、これらの土地を我が領土とし、もしくは我が勢力範囲としておくことが、国防上必要だと言うが、実はこれらの土地をかくしておき、もしくはかくせんとすればこそ、国防の必要が起こるのである。それらは軍備を必要とする原因であって、軍備の必要から起った結果ではない《

他方で、領土的野心を放棄することで、東洋の各国との融和をはかり、そして自由貿易を振興することの方がよほど日本やその交易する国々にとっても有益である。このように石橋の小日本主義は、日本国民の利害を主軸にしつつも、偏狭なナショナリズムに陥らず、国際主義的な視野に立つものであった。

リフレ主義と小国主義は表裏一体

また石橋の経済論の主眼であるリフレ主義は、デフレを伴う長期停滞を、積極的な財政・金融政策によって脱却していく方策であった。他国侵略や椊民地経営に依存することなく、自国を豊かにし、また「人中心《の経済に移行するための政策でもあった。つまりリフレ主義と小国主義はこの点で表裏一体である。

リフレ主義については、昭和恐慌期のいわゆる「高橋財政《によって目覚ましい成果をみることができた。ただし二・二六事件による高橋是清蔵相の暗殺とその後の放漫財政によってリフレ主義は無残な形で放棄されてしまった。また小国主義は採用されず、石橋が「大国主義の幻想《として批判した領土獲得競争は、やがてあまりにも多くの人命を奪う大惨事に帰結してしまった。

八月十五日の石橋湛山

石橋自身、自分の次男を南太平洋の戦線で失っていた。社長を務めた東洋経済新報社は、戦禍を逃れるために岩手県横手町に疎開していた。石橋湛山は、終戦の日をその横手で迎えた。石橋の『湛山回想』には、すでに日本の敗戦を予期し、政府首脳へ早期の終結を行うように、人づてに伝えてもいた。

すでに1944年の後半には、当時の大蔵省内での秘密委員会ともいうべき会合で、戦後の国際秩序や経済をめぐる問題を、経済学者、財界人、官僚らと共に議論を重ねていた。そのときの石橋の議論の前提は、先ほどの小国主義に立脚したものであった。この時点で小国主義的な発想を採用するということは、日本の敗戦を前提にしていたと解釈できるだろう(姜克實『石橋湛山』吉川弘文館)。

その意味では、八月十五日のいわゆる玉音放送の内容は、石橋にとっては十分に予期できるものだった。


「だが、一般の人々は、明日陛下の重大放送があると聞かされても、それが日本降伏の発表であろうなどとは、思いも及ばないことであった。したがって十五日正午、いよいよ降伏と発表されるや、皆きょとんとして、どうして良いのやら、どうなるのやら、わからなくなってしまった。わからなくなっただけでなく、恐怖した。敵軍が上陸して来たら、どんな目にあわされるかもわからぬと考えた。自暴自棄にも陥りかけた《

このような「人心の動揺《を目の当たりにして、石橋は八月十五日の午後3時には、横手町の有志の前で、「大西洋憲章や、ポツダム宣言に現れた連合国の対日方針について語り、また日本の経済の将来の見通しについて述べて、心配は少しもないから、安心して日常業務を励むようにと講演した《。

「更生《への道筋としての小国主義とリフレ主義

石橋はその後も講演や雑誌への寄稿を通じて、積極的に戦後日本のビジョンを伝えた。それは敗戦のショックが色濃い国民に、明瞭で具体的な「更生《への道筋を伝えるものであった。そのキーもまた小国主義とリフレ主義であった。以下の発言は、敗戦後数年後のものであるが、同じ趣旨を敗戦直後から繰り返し、石橋は述べていた。


「今日の日本国民は再び臥薪嘗胆、富国(強兵は、あえていう要もなきも)を標語とし、何をおいても経済力の増強に奮励すべきである。富国なれば、もし要すれば、いかなる強兵も養うことが出来る。これに反して、いかなる強兵も、貧国においては用をなさない。それは太平洋戦争の経験が明らかに示した《

経済を大きく成長させることで、潜在的な自衛力も保持でき、また富の再分配による社会保障的な政策も可能になると、石橋は考えていた。そして経済を成長させるには、政府の積極的な財政政策と金融緩和政策のスタンスが要求される。

積極的な財政政策は、長期的なインフラ整備を国債の発行によって行うべきだ、というのが石橋の主張だ。これはもちろん今日の日本経済にも必要とされるだろう。今日の財政政策は、財務省が主導する緊縮・消費増税主義によって侵されている。そのような緊縮政策は、日本の停滞をもたらすものである。この点は、今も敗戦後の日本も変わらない。


石橋は次のように述べた。

「したがって日本では、なんでも、かんでも通貨引き締め政策を取らねばならぬとする説は、日本の資源の開発をはばみ、永久に日本を、その日暮らしの貧乏国にしておけということに外ならない《

この「日本の資源《には、モノだけではなく、「人《も入る。いや、むしろ「人中心《にその可能性を経済的に生かすことが、石橋湛山の経済論の中心でもあった。

日本は現在、北朝鮮など近隣諸国との軍事的緊張の中にある。またデフレからの完全脱却までもうひと押しの状況にもある。石橋湛山が八月十五日に、新しい日本の針路とした小国主義とリフレ主義は今も重要な指針となるであろう。