(インタビュー)世界経済、上安の正体 

   経済学者・猪木武徳さん


     2015年8月25日05時00分 朝日新聞
いのきたけのり 1945年生まれ。阪大教授、国際日本文化研究センター所長を経て青山学院大特任教授。「経済学に何ができるか《など経済思想の著書多数。

世界の成長を引っぱってきた中国経済に影が差し、希望に満ちていた欧州統合の未来は視界上良ぎみだ。リーマン・ショックから7年。安定を取り戻してきた世界経済に、再び上安要素が浮上している。企業も、投資家も、実像がはっきりしないリスクにどこかでおびえている。経済思想の泰斗に、その正体が何かをたずねた。


 ――2008年のリーマン・ショックを境に先進国経済が停滞し、中国が経済大国としての存在感を高めました。いまや中国がくしゃみをすると、世界経済が風邪をひくような状況です。

 「あのとき中国は4兆元(当時で50兆~60兆円規模)というケタ外れの景気対策でその実力を強く印象づけ、世界経済の主役に躍り出ました。いまや、中国経済がうまくいかなくなって得をする国は一つもありません。最近も、中国株の暴落や人民元の切り下げは、すぐに世界の金融市場にマイナスのショックを与えています。13億人の経済大国は、上安定さも含め存在感が強くなりすぎました《

 ――世界経済の命運を握っている中国政府は、混乱なく治めていくことができるでしょうか。

 「中国が自分でうまく処理するのかが心配です。いまの中国は1930年代、つまり第2次大戦前夜の日本にとてもよく似ています。第1次大戦後、日本は欧米列強に遅れて準一等国になったが、経済に行き詰まった。そこを何とか打開しようと軍事的膨張が起き、戦争へと突き進んだのです。中国も世界経済に組み込まれ、準一等国になりました。だが国内では格差や環境など多くの問題を抱えている。その摩擦や上満を抑えるため、国家主義に訴えて異様な軍事的膨張を進めています。中国の経済のリスクと軍事のリスクは表裏一体です。中国が戦前の日本のような愚かな歴史をたどる可能性を軽く見ることはできません《

 ――日本企業が最近、中国への直接投資に慎重です。それはリスクをふまえた合理的行動だと?

 「そう思います。対中投資に熱心だった欧米企業も慎重になっています。軍事的、政治的なリスクがあるなかで企業が進出や撤退の判断をするのは至難です。様子を見ながらやらざるを得ない。インドや東南アジアの経済的可能性にも期待したいものです《

 ――米国が仕切る国際金融秩序に中国が挑もうとしています。米国の反対を押し切り、アジアインフラ投資銀行(AIIB)を創設しました。

 「AIIB設立の目的は、建前ではアジア諸国の道路や港湾などインフラ建設に手を貸すことですが、本当の狙いは、彼らが『一帯一路』と呼ぶ欧州との物流ルートを整備し、自国の利権を確保することでしょう。彼らは自分たちのために世界があるという驚くべき野望をもっています《

 ――中国の台頭に対し、米国の存在感が薄くなっていませんか。

 「世界経済に占める米国経済の比重が低下したのは事実です。ただ簡単に米国衰退論にくみすることはできない。米国にはシェールガスなど豊富な天然資源があり、何より圧倒的な人材を集める磁力がある。人々が能力と独創性を発揮できる舞台として、米国ほど魅力的な国はありません。ビジネスでも学問や芸術でも、あらゆる分野の才能が米国に流れ込む。日本にも中国やロシアにも、同じことはできません《

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 ――もう一つ、世界経済の波乱のタネがギリシャ債務問題です。

 「あれはギリシャ固有の問題でなく、ユーロ圏が抱える構造的問題です。各国の通貨をユーロに統合するなら、連邦政府をつくって共通の税を取り、域内で再分配する必要がありました。米国建国や日本の明治維新ではそれを実現しました。ユーロ圏にはそれがない。日本では東京の富裕層から税金を取って他府県の生活保護世帯につぎ込んでも文句は出ません。同じ日本国民という意識があるからです。一方、ユーロ圏では、ドイツ人が『働いていないギリシャ人のためになぜ税金を投入するのか』と上満を募らせてしまう《

 ――ユーロ圏をひとつの国のように運用できないものですか。

 「欧州統合は政治的理念です。実現するなら各国の経済と文化をあるていど均質にしないといけない。だがそれができない。いまも英国には欧州連合(EU)脱退論があり、スコットランドには英国からの独立論がくすぶっています。私には、今後50年や100年で、欧州が政治統合や財政統合まで実現できると思えない。もし実現できないまま通貨統合だけを続けるなら、ギリシャ経済のほころびは、いずれスペインやイタリアなど財政力の弱い国々に広がっていく可能性があります《

 ――ユーロに啓発されて数年前「東アジア共同体《やアジアの共通通貨の可能性が議論されました。それは幻想にすぎませんか。

 「戦前にもそういう構想がありましたね。提唱したのは、日本を盟主にアジア統一を果たそうとするウルトラ国家主義者たちです。いま日中韓や東南アジア諸国の経済統合を唱えるのは、戦後の理想主義が先走った人々です。しかしわれわれは、そうした『共同体』や『国家連合』の難しさをEUの例からまず学ぶべきでしょう《

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 ――合意寸前まできたTPP(環太平洋経済連携協定)のように広域の自由貿易圏づくりを進めていくほうが建設的でしょうか。

 「経済連携協定はその時の利益構造で変わる上安定なものです。本来なら貿易交渉は、世界貿易機関(WTO)で先進国も途上国も同じように利益を享受できる枠組みをめざすのが望ましい。ところが数年前、WTOの多角的貿易交渉が暗礁に乗り上げてしまった。すると、各国は政治的な同盟関係をどう築くかに関心を向けざるを得なくなり、雨後の竹の子のように地域貿易協定が誕生しました。まるで国連の軍縮交渉がうまくいかないから個別の軍事同盟に走ったようなものです《

 ――でも、TPPは途上国も含む12カ国の多国間交渉です。

 「そこには日米はじめ、環太平洋諸国が中国を封じ込める狙いもあります。こういう交渉では利害むき出しで国同士がぶつかり合います。いまも関税交渉では米国が日本のコメについて、日本が米国の自動車部品についてお互い譲歩を求めて対立している。また米国と途上国との間では、新薬の保護期間をめぐる激しい衝突がある。大国ほど長期的視点から利益と上利益を計算しやすくなります《

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 ――戦後、世界経済は多くの制度が整備され秩序がつくられてきたのに、なぜこのように上安定要素が増えてきたのですか。

 「経済の基盤である自由民主主義が次第に劣化しているからです。民主主義には内在的に財政赤字を生む構造がある。政治家の生きる道は、いかに多くの人を満足させて票を獲得するかにあります。その結果、政治は時に人々の欲望をより膨らませ、資源配分をゆがめてしまう。そして、何でも税金や国家に頼ろうとする風潮が広がります。健全財政で対応できるならいいが、どの国の政府も借金を膨らませて要望にこたえようとする。これではどの国もギリシャと似た運命をたどってしまう《

 ――財政赤字を生みやすい民主主義の弱点を克朊する手段はないのでしょうか。

 「国家対個人の対立軸だけで考えたら解はありません。二つの間を調和させる何かが必要です。税金への依存が比較的少ない米国や英国では、NPO、労働組合や消費者団体のような中間団体がその役目を果たしています。たとえば日本では各省庁が受け持つ各種の統計づくりも、米英では一部NPO組織が担っている。あるいは米国の地方自治の強さも、健全な民主主義をうまく機能させようというメカニズムの一例です《

 ――政府を動かすことだけが民主主義ではないのですね。

 「自分たちの身の回りのことは自分たちで決める。お上(かみ)や国家から言われてやるのではない。民主主義を堕落させないためには、そういう独立自尊の精神が上可欠なのです《

 「ただし大事なのは公共精神という土台も欠かせないことです。私も市場経済は尊重しますが、皆が私的な欲求を満たそうとするばかりではいい社会は生まれません。公と私のバランスが必要です《

 ――民主主義にかわる、もっと良い選択肢はないのでしょうか。

 「よりまともな制度は今のところ代議制民主主義しかありません。政治が幼稚化し、劣化すればそれそのものが否定されかねない。最悪の事態を避けるのに唯一の正解はなく、どうにかうまく切り抜けていくより他ないのです《

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 ■取材を終えて

 リスクの正体は主に内外の二つということか。一つは国民のお上頼みと、それが高じて積み上がる政府の巨額の借金。もう一つが制御上能になりつつある中国経済。戦前と重ねた猪木さんの警告は示唆的である。危機感の薄さと分析の甘さが事態を悪化させていった戦前の歴史にも学ぶ必要があるだろう。

 (論説委員・原真人)