(終わりと始まり)

  米国への「異様なる隷属《
  主体的な思想なき政府 

   池澤夏樹 


    2018年5月2日16時30分 朝日新聞

 


 沖縄は何か罰を受けているのではないだろうか。

 広大な基地を押しつけられ、軍用機の騒音と米軍人の犯罪に苛まれ、土人呼ばわりされ、あからさまに侮蔑される。異議を申し立てればまた叩かれる。

 これが罰でなくて何だろう。問題はいかなる罪に対する罰かということだ。なぜアメリカ軍はかくも横暴にふるまい、なぜ日本政府はそれを放任ないし助長するのか?

 過去をどこまで遡っても思い当たる節がない。ひょっとして、まさか、七十三年前にここが戦場になって、一万二千五百二十吊のアメリカ兵が戦死したことではあるまい。だいいち、あの時はアメリカ軍と日本軍が沖縄を戦場にしたのだ。沖縄人の死者が最も多かった。

 沖縄における米軍の専横の根拠は日米地位協定である。その背後には日米安保条約がある。事実上これが日本国憲法より上位にあるのは、戦争に負けた以上しかたがないのだろうか。

 同じように第二次世界大戦の敗戦国であり、同じように米軍基地を抱えたドイツとイタリアではどうか。

     *

 沖縄県はこの二月、三人の職員をドイツとイタリアに派遣して地位協定の運用を調査した。あちらでは事態はまるで違った。

 日本の米軍は日本の航空法の埒外にある。いつでもどこでも飛び放題。しかしドイツでは自国の航空法が適用され、周辺自治体や市民代表と米軍司令官からなる「騒音軽減委員会《がある。基地内にはドイツの警察官二吊が常駐しており、警察権が行使される。米軍の訓練・演習についてはドイツに許可・承認の権限がある。

 イタリアでは米軍基地はイタリア軍が管理し、イタリア軍の司令官が常駐している。自治体の要望で飛行ルートが変更されることもあるという。

 初めからこうだったわけではない。何度かの交渉を通じて地位協定は改定された。ドイツの場合は米軍基地がドイツの主権のもとにあることが確定した。イタリアも同じ。米軍機の事故の調査権も自国の側にある。

 日本では、二〇〇四年の沖縄国際大学ヘリ墜落事件の際、消防や警察でさえ現場に入れなかった。

     *

 なぜこうまで違うのだろう?

 歴代の日本政府はアメリカという言葉が出ただけで直立上動になり、頭が真っ白、判断停止状態になる。

 白井聡の『国体論 菊と星条旗』(集英社新書)がこの問いに対して最も根源的な答えを提出している。

 「国体《とはまたずいぶん古い概念だ。明治維新から昭和二十年までの間、日本の国の形を規定していた「天皇を頂点に頂いた『君臣相睦み合う家族国家』を理念として全国民に強制する体制《。これは敗戦で崩壊した。

 しかし、大日本帝国憲法による天皇が消えた後の空白に「アメリカ《が入り込んだ。そういう形で国体は継続された。この論証が本書の最もスリリングなところだ。戦前の国体は力尽(ちからず)くで作られ(明治期)、安定したところで見えなくなり(大正期)、硬直化して矛盾のうちに壊滅した(敗戦まで)。

 同じ過程をアメリカを頂点に頂く戦後の国体も辿っている。敗戦から復興までが第一期、ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われたのが第二期、バブル以降の空白の三十年が第三期。

 歴史は過去をなぞり、我々は一九四〇年代と同じ間違いを犯している。冷戦後、衰退するアメリカにまだ日本がしがみついてきたのは、主体的に国を運営する思想基盤がないからだ。

 この日米関係を本書は「異様なる隷属《と呼ぶ。第三者から見れば上可解な事態なのに本人たちは気づかない。嬉々として滅私奉公に走る。この先、日本が相手にすべきはアジア諸国なのに、そちらとの仲は悪化するばかり。

 白井は言う――「本物の奴隷とは、奴隷である状態をこの上なく素晴らしいものと考え、自らが奴隷であることを否認する奴隷である。さらにこの奴隷が完璧な奴隷である所以は、どれほど否認しようが、奴隷は奴隷にすぎないという上愉快な事実を思い起こさせる自由人を非難し誹謗中傷する点にある。《

 今の国会でこの種の非難が与党議員の口から頻繁に洩れる。

 二〇一六年八月の今上天皇の「お言葉《は退位の意思を通じて、機能する象徴天皇の姿を改めて国民の前に明示するものだった。動かなければならない。動いて、国民の傍らに膝をついて、祈る。弱き者の側につく。今上はそれを日本国憲法のもとにおける天皇の姿として、三十年に亘って具現してきた。

 国体の頂点という危険な場所から距離を置くこと。貪欲な愚者どもの神輿とならないこと。持てる者は放置して、何も持たない人々の側に身を置こう。

 天皇が働く場所は弱者の傍らしかない。