ロシア革命*破局の8か月

   無関係でないエリートと大衆の格差

   池田嘉郎著(岩波新書・907円)
   沼野 充義 評

      2017.03.05 毎日新聞



 ロシア革命が、人類にとって二〇世紀最大の歴史的出来事の一つであったことは、誰もが認めるところだろう。ロシア革命が掲げた理想がもはや色あせ、ユートピア建設を目指したソ連という壮大な実験国家が潰えてしまった現在にあっても、この事件がいまだに放つ光の強烈さは消えることがない。

 今年はそのロシア革命の一〇〇周年にあたる。そして、革命によって誕生したソ連という国家が解体してから、もう四半世紀以上が経つ。改めてこの出来事を振り返り、その歴史的意味を考え直すことは、単なる懐旧趣味にはとどまらない。池田義郎『ロシア革命』は新書判の小書であり、その内容は禁欲的にロシア革命のあるプロセスに焦点を絞っているが、当時の文脈を超えて、現代世界にもっながる大きな思想的射程を持った意欲作である。

一口に一九一七年の「ロシア革命《といっても、二月革命と十月革命の二段階からなっている。ごく常識的な説明をすれば、まず二月革命で、三世紀続いたロマノフ朝が倒されるとともに、自由主義者を中心とする臨時政府が作られた。しかし同時に、より急進的な労働者・兵士の代表組織であるソヴィエトが強大な勢力となり、社会は二重権力状態に陥った。しかも当時、ロシアは第一次世界大戦のさなか。国全体が出口の見えない総力戦に疲弊しつつあった。このような混迷状態の中、様々な社会勢力の複雑な対立や、街頭の混乱、クーデター未遂などを経て、ついに機を見澄まして表舞台に登場した革命家集団ボリシェビキが武装蜂起を敢行、権力を掌握した。これが十月革命である。

 ロシア革命といえば、多くの人は、この十月革命を「本番《ないしは「終着駅《と考えがちだ。そして歴史の記述は、この革命の後にソ連という特異な国がいかに作られていったかに焦点を合わせることになる。それに対して、池田氏の著書は、禁欲的に、二月革命から十月革命までの「破局の8か月《に限定して、その複雑なプロセスを丹念に具体的に物語っていく。その日附も明確だ。十月革命によって何が獲得されたかではなく、ニ月革命によって模索された可能性がいかに閉ざされていったか、十月革命までの間に何が崩壌していったかを明らかにすることである。

 分析の際、池田氏が用意した枠組みは、ロシア社会が基本的に、「公衆《と「民主勢力《に分断されていたという見方である。前者は自由主義者が属するエリート層。後者は労働者・農民・兵士などの民衆であり、社会主義者に率いられる急進勢力だ。両者の懸隔は大きく、それぞれの理想も異なっていた。そして、結局、自由主義者の努力は民衆には届かず、革命によって解き放たれた民衆の「自然力《は自由主義者には抑えられず、「街頭の政治《になだれこみ、終末論的な猛威をふるうことになったのだった。詩人ブロークが、「ブルジョアどもには災難だが/世界の火事を燃え上がらせよう/この血に燃える世界の火事を/神よ、祝福してくれ《と歌った通りだ。ロシアをヨ一日ッパ文明の先進国にしようという、自由主義者の理念は十月革命によって潰えた。

 しかし、池田氏は、社会情勢を客観的に踏まえつつも、決して、抽象的な枠阻みや理屈によって事態の推移を説明しようとはしない。本書では臨時政府や革命家たちの夥しい吊前が挙げられているが、著者はその一人一人を、顔のない歴史的要因としてではなく、常に生き生きと描いている。例えば、レーニンは「泥んこのなかで天衣無縫に遊ぶ幼児のよう《であるのに対して、トロツキーは「積木をきれいに積み上げて『僕こんなのできるんだよ』と笑顔を輝かす少年のよう《、といった具合に。これはおそらく、歴史を個々人という「アクター《に還元して考えようという史観の反映というよりは、あくまでも歴史家としての著者の、血の通った人間的な興味によるものだ。本書にはその他、歴史の舞台となった町の美しいたたずまいや建物、さらには関連する文学者たちへの言及もふんだんに盛り込まれ、著者が歴史の舞台とその背景にある文化によく親しんでいることを示している。そして、いかなる歴史研究も、このような人間的興味や文化への造詣抜きには成り立たない。

 最後に著者は、「破局の8か月《によって失われたものは、現代のロシアにも深い痕跡を残しでいると示唆し、この過程があらわにしたエリートと大衆のギヤップの問題はじつはいま世界でいっそう緊要なものになっていると説く。中東、ヨーロッパ、アメリカ、日本---確かにどの地域も無関係ではない。

 ではどうしたらいいのか? もう一度、革命を起こさなければならないのか? いや、暴力も、極論がカを持つ「街頭の政治《もだめだ、と著者は言ったうえで、「ひとは互いに譲りながら、あい異なる利害を調整できる制度を粘り強くつくっていくしかない《と結ぶ。平凡だが、なんと素晴らしい教訓だろうか。歴史に学ぶというのは、こういうことだ。