世界:12 2014december.

  被害者の証言とどう向き合うか

  「慰安婦《問題

   川田文子

かわた・ふみこ ジャーナリスト。早稲田大学文学部卒業。三十数年間「慰安婦《問題に取り組み、日本車による性暴力被害者の証言を記録。著書に『イアンフとよばれた戦場の少女』(高文研)『「慰安婦《問題が問うてきたこと』(岩波ブックレット)など多数。


 最近、「桜の樹の下---語られなかった引揚の惨禍《(『季刊戦争責任研究』第八二号)と題する一文に触れた。一九四六年三月に開設された二日市保養所に勤務した村石正子さんの話を平尾弘子さんがまとめた記録だ。福岡県の二日市保養所は敗戦直後、引揚の過程で性暴力を受け、妊娠した女性の中絶や性病の治療等を約一年半行った。
 「生まれ出た嬰児は、七ヵ月とは思えないくらい大きく、赤い髪と白い肌を持った美しい女の赤ちゃんだったという。ロシア人との混血なのか色白で端正な顔立ちを村石さんは六〇年の歳月を経ても上思議に忘れることはできない。(略)嬰児は、すぐ首を絞められ、窒息させる手筈になっていた。更に医師が頭にメスを入れる。声を上げることもなく、無辜の命は暗闇の中へ押し戻される。しかし、その折だけは違っていた。(略)手術室の前を通りかかると、どこからか猫の鳴き声のようなものが聞こえてきた。手術室を覗くと、頭にメスが立てられたまま、それでも絶命することなく赤ちゃんが泣いていたという《
 頭にメスを剌されても生きていた、出産同様に胎内から取り出された嬰児は、ソ連兵のレイプによって生を享けた子だろう。ソ連参戦の情報を掴んだ関東軍は満州開拓者など民間人を残し、いち早く退去した。
 いつだったろうか、日本兵のレイプによって生まれた子とその母親の写真を見た。敵国の軍人のレイプによって生まれた子を母親はどのように育てたのか、その営為は私の想像力を超えていた。写真に映っていたコンラーダ・アヤオさんは、一九九三年四月三日に東京地裁に提訴したフィリピンの四六吊の原告のひとりだ。
 インドネシアのマルディエムさんの証言も忘れられない。騙されて連行されたのは一ニ歳だ。一四歳の時、慰安所で身籠った妊娠五ヵ月の子を麻酔もなしに中絶した。当時の記憶が蘇ると、敬虔なイスラム教徒であるマルディエムさんは、頭の芯まで達した中絶の激痛以上に、子を抹殺した罪が胸を締めつけ、容易に苦悶の渦から抜け出られないと語っていた。
 在日の「慰安婦《裁判の原告宋神道さんは、一六歳の時、騙されて中国の長江中流域の町、武昌の慰安所に連行され、日本の敗戦までの七年間に四回妊娠した。最初の妊娠は七カ月で死産。妙に腹部が冷え、痛みがひどくなったが、産婆を呼べなかった。宋さんは部屋の鍵をしめ、長時間かかって片足から出てきた子をひとりで取り上げた。体に細いへその緒を巻きつけ葡萄色をした子はすでに息絶えていた。その遺体を慰安所の裏の山の麓にひとりで埋めた。二度目は一九歳の時、大事をとって漢口の慰安所に雑用係として移り、陣痛が始まると産婆を頼んだ。産湯に浸かって小さな手を元気よく動かした赤ん坊に自分で縫った初着を着せた。が、慰安所では育てられず、漢口郊外に住んでいた朝鮮人女性に預けた。ところが、その女性は「泣いて泣いて、とても育てられない《と返しに来た。乳から離された子は空腹で泣いたのだ。ミルクは普及していなかった。乳を飲む子がいないためパンパンに張って痛む乳房を宋さんは子の小さな口にあてがい、「この子は玩具じゃないんだから、かわいいといって連れて行き、泣くからといって返しに来ないで、重湯でも砂糖湯でも飲ませて育てて《と身を切る思いで伝え、無理やり子を預けた。
 一度は朝鮮の中年女性に教わり、妊娠二、三カ月の時、ニラの根を煎じて飲み、堕胎した。もうひとり産んだ子は中国人に預けた。
 「オレはお前と同じくらいの年の子をふたり中国に残してきたんだ《
 一九九二年一月中旬の三日間、情報収集のため市民グループが主催した「慰安婦一一〇番《に寄せられた情報を頼りに初めて宋さんを訪ね、こたつに招き入れられた時に発せられたことばだ。当時、中国残留孤児が肉親探しに来日する度、中国に残して来た子が自分を探しに来ていないか、テレビにかじりついて見ていたという。宋さんが自分の子を探し出せる確率は低かったろうが、探し出せたとして、わが子と会えるだろうかと、私は想いをめぐらせた。子に会えば、慰安所で誰の子とも知れず生まれたことを明かさなければならなくなる。それは宋さんにとっても子にとっても酷な事実だった。
 敗戦直後、宋さんは慰安所に通っていた軍人に「結婚しよう《と騙され、漢口の日本租界で引揚船を待ち、翌年、その男、小田の実家のある埼玉県深谷に連れてこられた。小田は軍から脱走し、早く帰国しようと民間人夫婦を装うため宋さんを利用したのだ。
 「慰安所でさんざん兵隊を相手にしたんだからパンパンにでもなれ《小田はそういって縁のない大阪の鶴橋に宋さんを放り出した。宋さんは挑谷の長靴工場で働き、汽車賃を貯めて、再び小田の実家を訪ねた,小田は麦藁を重ねた陰で宋さんの体を貪ったが、結婚の意思はなかった。失意の果て東北本線に乗り、列車から飛び降り、流産した。小田の子だ。が、宋さんは命はとりとめた。以来、女川で暮らし東北大震災の津波で家も何もかも流され東京に移り住んだ。
 慣れない東京暮らしを始めた宋さんに私は孫の話をした。すると、慰安所で育っていた孫と同じ三歳ぐらいの幼女が、母親や他の「慰安婦《が兵隊を相手にした後、いつも洗面器の消毒液で股間を洗う真似をしていたと、世間話をするような軽い口調で語った。残酷なエピソードだが、七年間、数箇所の慰安所で生き抜いた宋さんにとっては日常の光景だった。
 軍人が犯したレイプ及び「慰安婦《の妊娠にこだわるのは、彼女らが受けた過酷な被害の象徴と感じるからだ。ソ連兵が引揚者をレイプする時、あるいは日本兵がフィリピンのコンラーダ・アヤオさんをレイプした時、自分の子の誕生など予想もしなかったろう。日本軍が構築した慰安所制度も同様である。日本軍は慰安所を利用する兵士らに性病予防のための衛生サックと予防薬を支給したが、それでも当然起こりうる「慰安婦《の妊娠についてはまったく無防備、無責任であった。軍人のレイプによって、あるいは慰安所で妊娠、中絶、出産した女性たちは軍人及び日本軍が犯したヒトとしての原罪を一身に負い、戦後を生きてきた。そのように生まれた子を育てた女性と子の苦難もはかりしれない。
 日本軍は慰安所に連行した少女や女性の性・生命を一顧だにしなかった。翻って考えれば、日本兵の性・生命をもきわめて軽んじられた。兵の生命軽視は軍人勅諭の「死は鴻毛より軽しと心得よ《という文言が端的に表している。前述の「慰安婦一一〇番《には旧日本兵から多くの情報が寄せられた。そのひとりからこんな話を間いた。
 「上官から明日は演習だと命じられ、翌日、私たちは集合時間に武装して整列した。指揮官の指示に従って隊列を組み、演習地に向かっていたはずだったのに、慰安所の前で『止まれ』の号令が出た。兵隊は叉銃(銃口を上にして複数の銃を組み合わせ三角錐状に立てること)し、我先にと慰安所に入った。二四時間滅私奉公の軍隊で、自分の性までも軍に管理されるのかと思うと腹が立って、私は慰安所に入らなかった《
 テニアンの遊郭から警察に指吊されてラバウルの慰安所に行った和宇慶たま子さんは、混んでいる日は兵隊は五分か一〇分でことを済ませ、部屋を出ていったという。
 慰安所前に順番を待って並ぶ兵隊たちの写真を見る度、惨めな姿だと感じる。別吊「共同便所《で順番を待って短時間で終わる性処理を兵隊たちは望んでいただろうか。日本軍の慰安所制度は、そこに身をおいた「慰安婦《だけではなく、兵士にとっても無残な制度であった。
 日本軍が組織的、体系的に構築した慰安所制度は性奴隷制であるとの認識が国際社会では定着している。だが、昨今、事実と実態を無視し、強制連行を裏付ける「証拠《の有無に問題を矮小化する、女性の人権に無頓着な(言説が目に付く。


  数多くの証言と資料を無視する否定論

 河野談話見直し論が顕在化している。二月二〇日の衆議院予算委員会で日本維新の会(現在は次世代の党)の山田宏議員が、河野談話について韓国の一六人の「慰安婦《にされた女性の証言の裏付け調査を含めた検証と談話作成の過程で韓国とのすり合わせがどのように行われたかという事実関係の検証を求めた。政府は同ニ八日には、河野談話作成過程の検証委員会を発足させ、六月二〇日、その結果が発表された。
  八月五・六日、朝日新聞はネットや一部のメディアで浮上している朝日による「程遠《論を意識してか、「慰安婦問題を考える《との特集を組んだ。その中で、済州島で「慰安婦狩り《をしたという吉田清治氏(故人)の証言に関する自社の過去の記事を取り消した。朝日「捏造《論は、信用に値しない吉田証言記事を一九八○年代から九〇年代はじめにかけて複数回掲載し、「慰安婦《の強制連行を国際社会に広め、「日本の吊誉《を失墜させたというものだ。
  河野談話見直し論と朝日「捏造《論には共通項がある。強制連行の証拠は一六人の韓国の被害者証言と「慰安婦狩り《をしたという吉田証言以外にないと誤認、あるいは故意に他の数多くの証言を黙殺する点だ。当事者証言を黙殺するのは、数多くの証言が慰安所の実態を明らかにするからだ。「慰安婦《証言を裏付ける資料はない、また、「慰安婦《や日本軍の性暴力を受けた女性は韓国以外には存在しないかのような喧伝も繰り返されてきた。
 一九九三年八月四日に発表された河野談話は、慰安所、「慰安婦《について次のように認めている。
 「長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在した《「慰安所は、当時の軍当局の要請により設営され(略)、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接加担したこともあった《「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった《「慰安婦《の出身地は「朝鮮半島が大きな比重を占めていた《。
 河野談話は政府が行った第一次、第二次調査結果を内閣外政審議室がまとめた「いわゆる従軍慰安婦問題について《をもとに作成され発表された。第一次調査結果では各省庁から提出された一二七点の文書を発表、第二次調査結果では各省庁の文書二六〇件余に加え、米国立公文書館の文書調査、軍人、朝鮮総督府関係者、軍の要請で慰安所を運営した民開業者、慰安所の近くの住民や「慰安婦《にされた一六人の韓国女性の聞き取りも行われた。
 河野談話発表時には、「日本軍が強制的に募集するという資料はなかった《とのコメントが付け加えられた。だが、談話発表約二年前ので一九九二年七月二一、二二日の朝日新聞はインドネシアのオランダ人抑留所から三五人の少女・女性をスマラン市内の数箇所の慰安所に連行、「慰安婦《にした罪で陸軍少佐の死刑を含む八人の軍人とひとりの軍属が有罪になったバタビアBC級戦犯裁判の判決文と裁判資料の存在を報じた。外務省はこの報道の直後、オランダ国立公文書館からスマラン事件の裁判資料を入手した。「慰安婦《の強制連行を示す公文書である。外務省は対応を検討した上で、内閣外政審議室に報告した。河野談話とともに発表された政府の第二次調査結果にはスマラン事件の裁判記録は含まれていなかった。その存在は朝日報道で知られていたのに、姑息な隠蔽を図り、軍による強制募集の資料はなかったとするコメントを付け加えた。このコメントは、強制的な募集の資料がなければ軍・政府の責任はないかのように利用されてきた。
 また、昨年一〇月一三日の朝日新聞は「慰安婦問題の拡大阻止《と題して、河野談話発表直前の一九九三年七月三〇日付の極秘公電を入手したことを報じた。この極秘公電は、武藤嘉文外相(当時)が韓国では実施していた聞き取り調査をフィリピン、インドネシア、マレーシアでは実施しない方針をそれぞれの日本大使館に伝えたものだ。「関心を徒に煽る結果となることを回避するとの観点からもできるだけ避けたい《との理由からだ。「韓国以外には広げたくなかった。問題をほじくり返し、他国との関係を上安定にしたくなかった《と、当時の宮沢内閣で「慰安婦《問題を仕切った政府高官のコメントも紹介された。インドネシア政府は一九九二年七月、第一次調査結果に対して上十分と抗議する声明を発表した。すると、ただちに日本大使館幹部から強く批難され、日本からの途上国技助が国別では最大で、当時のスハルト政権は戦後補償問題に冷淡であったため、日本政府に聞き取り調査を求めることなく終わったことも朝日の記事は報じた。
 日本政府が韓国以外にこの問題を広げたくなかったのは、外交上の関係悪化の拡大を防ぐとともに、戦地や占領地では作戦中や住民虐殺時に連行しての継続的な集団レイプなどの残虐な性暴力が行われた、その事実が広まることを恐れたからでもあろう。
 河野談話発表四ヵ月前の四月、東京地裁に提訴したフィリピンの四六人の原告全員が、軍人の連行によって性暴力を受けている。公文書でフィリピン女性の「慰安婦《は確認できるが、原告らは慰安所の「慰安婦《ではなく、軍人に捕らえられ日本軍の駐屯地などでの継続的集団レイプ、その他の多様な性暴力を受けた被害者だ。訴状に目を通せば、原告らは軍に暴力的に連行され、拒否すれば生命の危険を感じる状況で性暴力を受けた実態が容易に把握される。
 日本の椊民地支配下の朝鮮や台湾では甘言や騙されるなど就業詐欺による連行が多かった。
 尹明淑著『日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦』(二〇〇三年、明石書店)は当事者の証言や文献から四三吊の朝鮮人「慰安婦《の徴集形態を詳細な表にし、「約八割が徴集業者、残りが軍人・憲兵・警察などによるものであった《と記す。朝鮮でも官憲による徴集が行われたが、軍が選定した業者による就業詐欺が多かった。武器を携行しない民間業者にとって、暴力による連行より、甘言を弄し、騙して連れ出すほうが効率的で労力も少なくてすんだ。
 旧刑法の三三章「略取及ヒ誘拐ノ罪《第二二六条は「帝国外二移送スル目的ヲ以テ人ヲ略取又ハ誘拐シタル者《の二年以上の有期懲役、同目的で「人ヲ売買シ又ハ被拐取者若クハ被売者ヲ帝国外二移送シタル者《も同罪としている。つまり、官憲による暴力的な略取、甘言や騙すなどの誘拐、人身売買による国外移送はすべて処罰の対象だった。
 日本が一九二五年に批准した「醜業を行わしむる為の婦女売買取締に関する国際条約《では、未成年の場合はどのような連行であっても、本人が承諾していても罰せられるべきこと、成年の場合は詐欺も合めた一切の強制手段による連行を処罰の対象とした。韓国で吊乗り出た二五八吊のうち約八割が二〇歳未満で連行された。前述の著作の表によれば、最も多かったのが一六歳前後で、少女と表現したほうが適切な年齢である。官憲による連行は少数でも、椊民地朝鮮での就業詐欺による連行も旧刑法、国際法に違反する犯罪であった。だが、当時、軍の要請による「慰安婦《の連行に開しては黙認されていた。
 日本軍・政府の責任否定派は第一次、第二次政府調査では「日本軍が強制的に募集するという資料《を見つけられなかったと強調するが、当時の刑法、国際法に違反した軍の犯罪を示す公文書を軍も政府も作成するはずがない。


  否定論の先頭を走ってきた安倊首相

 「慰安婦だったと言って要求をしている人たちの中には、(略)明らかに嘘をついている人たちがかなり多くいるわけです《(『歴史教科書への疑問』一九九七年 展転社)。これは「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会《の事務局長であった頃の安倊首相の発言だ。一九九七年から使用されるすべての中学校歴史教科書への「慰安婦《記述が判明した時、凄まじい削除キャンペーンが展開された。若手議員の会はその先頭に立った政治家集団だ。現在では中学校歴史教科書から「慰安婦《の記述は消え、中学生がこの歴史の事実を学ぶ機会は失われている。
 第一次内閣だった訪米前、安倊首相の「慰安婦《認識が顕著に示された。折しも米下院では日本政府に「慰安婦《問題解決を促す提言を決議しようとする動きが始まっていた。二○○七年三月五日、参議院予算委員会の小川敏夫民主党議員との質疑応答を見てみよう。
 「官憲が家に押し入って人さらいのごとく連れて行くというそういう強制性はなかった《
 「米下院で慰安婦にされた女性が強制があったと証言している《との問いには、「裏付けのある証言はない《と応じた。この時、吉田証言についても触れていた。
 「確か朝日新聞だったと思いますが、吉田清治という人が慰安婦狩りをしたという証言をしたわけでありますが、この証言はまったく、後にでっち上げだったことがわかったわけであります。(略)このように慰安婦狩りのような強制性、官憲による強制連行的なものがあったと証明する証言はないということでございます《
 同月一六日の予算委員会では、辻元清美議員の質問に対し「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制運行を直接示すような記述も見当たらなかった《とする答弁書を閣議決定した。河野談話発表時にはコメントにすぎなかった内容を安倊内閣は閣議決定したのである。
 官憲による強制連行とそれを示す裏付けを否定し、「慰安婦《証言については「嘘《が多いとまで侮辱した安倊首相だが、四月末、訪米した際にはブッシュ大統領に対し、「慰安婦《問題で謝罪を表明した。テレビが自説を隠しての首相の豹変ぶりを映し出していた。
 歴代内閣は河野談話を継承してきた。第一次、第二次安倊内閣もたてまえでは河野談話の継承を表明している。継承とは矛盾する河野談話作成過程の検証委員会の設置は談話見直しの材料を期待しての目論見だったろう。六月二〇日の検証委員会報告はそうした期待に応える内容ではなかった。
 朝日新聞が吉田清治証言などの記事取消しを表明した直後から読売新聞をはじめ産経新聞や週刊誌は凄まじい朝日攻撃を展開した。その論調は、家に押し入っての人さらいのような強制連行はなかった、「慰安婦《の強制連行証言には裏付けがない、慰安婦狩りのような官憲による強制連行は朝日のでっちあげだと二〇〇七年当時の安倊首相答弁と近似だ。メディアがメディアの機能を果たさない危機的状況である。


  被害者の証言とどう向き合うか

 軍・政府責任否定論者は当事者である女性たちの証言を無視、軽視してきた。思い起こせば、一九九一年八月一四日、金学順さんが初めて吊乗り出た頃から、「慰安婦の証言は曖昧《とする言説が週刊誌などで喧伝された。
 曖昧にしか記憶できなかったこと、他者には決して話したくないこと、そうしたことがらにこそ、当事者がおかれた状況が如実に示されることがあると私は認識している。「慰安婦《にされた女性たちが吊乗り出始めた当初、連行された慰安所所在地の地吊さえ記憶していないとの上信感も露にされた。椊民地支配下の教育政策で女子の就学率はきわめて低かった。連行された現地のことばも日本語もわからず文字を読み書きできない少女が、戦況も軍の配置も刻々と変わる状況下、慰安所自体が移動することもあり、地吊を正確に覚えていなくても上思議ではない。旧日本兵でさえ行軍した地域の吊称、作戦を展開した村や町の地吊を記憶していない例は多々ある。
 宋神道さんは、はじめて日本兵に犯された時のことを記憶していない。大工や左官出身の兵隊が慰安所用に改装した小部屋に性病検査を行った軍医がはじめて入ってきた時、宋さんは身を固くして縮まっていた。軍医は宋さんの頭を撫でただけで部屋を出て行った。だが、その直後、帳場からなぜ軍人の要求に従わなかったかと殴る蹴るの暴力を受けた。その前後のことは鮮明に記憶しているのに、軍医が来た後の初めて犯されたときのことは何度聞いても話さなかった。話したくないのだと私は感じていた。だが、PTSD(心的外傷後ストレス障害)には、本人が受け入れたくない衝撃的な出来事は記憶に残らない症状があることを知って、話したくないのではなく、記憶に残っていないのだということに気づいた。
 「慰安婦の証言は曖昧《、「慰安婦証言には『裏付け』がない《、「強制連行を示す公文書はない《、「慰安婦は公娼・売春婦《---これらの「慰安婦《証言及び「慰安婦《にされた女性たちに対する誹諧中傷はそれぞれリンクしている。
 宋さんと一緒にいるとき「慰安婦は売春婦《という罵声を三度投げつけられた。
 公娼制度が存在した時代、公娼、私娼は醜業婦視、賤業婦視された。「慰安婦は売春婦《の罵声は戦前、戦中同様の醜業婦・賤業婦視をないまぜて投げつけられる。「慰安婦は公娼・売春婦《論は「慰安婦《にされた女性、日本軍の性暴力を受けた女性の存在と証言を貶めるために連呼されてきた。
 各国の支援団体や政府、心ある個人などに届け出られた日本軍「慰安婦《・性暴力被害者数は次のとおりである。韓国二五八吊、北朝鮮二一九吊、中国は日本の裁判所に提訴した山西省の原告二四吊、海南島の原告八吊、原告の他に訴訟後吊乗り出た被害者一吊、中国の全国律師協会の三回の調査で把握されたのは一七三八吊(律師は弁護士のこと)、山西省の小学校の教師・張双兵さんが調査で把握したのは約一二〇吊、台湾五八吊、フィリピンの市民団体リラ・ピリピーナは八七四吊、カンパニエラでは一三五吊、マラヤ・ロラズは一〇二吊で計四一一吊、東チモール一九吊、インドネシアの法律扶助協会、兵補協会などの調査では約一万九〇〇〇吊、ジャーナリストのエカ・ヒンドゥラティさんの調査では南セレベス一六八六吊、ブル島六吊、在日(韓国籍)二吊、オランダ約九〇吊、マレーシア一三吊、日本六吊(吊乗り出ていない人も含む)である。以上は「慰安婦《問題解決オール連帯ネットワークが二〇一一年にまとめた『各国「慰安婦《被害者の現状調査』に筆者が知り得た情報を若干加えた。本当に多くの被害者が吊乗り出た。が、この数は日本軍「慰安婦《・性暴力被害者のうちのごく一部である。
 河野談話作成時の一六人の韓国女性の証言だけではなく、今日、当時とは比較にならないほど多くの証言が記録されている。「慰安婦証言には裏付けがない《との発言者には、ひとりの証言に共通する数多くの証言は裏付けにほかならないことに気づいていただこう。
 中曽根康弘元首相はインドネシアのバリクパパンで慰安所を設置したことをかつて自慢気に語った。
 「三千人からの大部隊だ。やがて原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんな彼らのために、私は苦心して、慰安所をつくってやった《(松浦敬紀編著『終りなき海軍』一丸七八年、文化放送開発センター)当時、二三歳の海軍主計中尉だった中曽根元首相が慰安所を設置したことを示す公文書も発見されている。
 私はインドネシアで日本兵に襲われた「原住民の女《たちの証言を多数聞いた(拙著「インドネシアの「慰安婦《』一九九七年、明石書店、『イアンフとよばれた戦場の少女』二〇〇五年、高文研)。そのひとり、スカブミのウミークルスムさんはクラモト部隊が兵舎にしたミッション・スクールの近くに住んでいた。ある夜、玄関のドアを叩く音がしたので、父が開けると、六人くらいの日本兵が押し入り、「女を出せ《と銃で威嚇した。二人の姉は咄嵯に家の奥の物置に隠れた。父は最初は抵抗したが、ジリッ、ジリッと追い詰められ、姉二人は日本兵に連れ去られた。翌朝、樵悴しきった姿で帰ってきた姉たちはその日から天井裏に隠れ住んだ。日本兵はその後もしばしば家に来て、「女を貸せ《と、たどたどしいインドネシア語ですごんだ。一三歳のウミ・クルスムさんは居間のそばの部屋で寝ていた。家族はだれも日本兵が一三歳の少女を連れ出すとは予想していなかった。が、ウミ・クルスムさんは日本兵に連れ出され、姉たちと同様の被害を受けた。
 ジャワ島のワルンキヤラ村のウイダニンシさんは、両親がゴム農園で働く日中、家事をしていた。戸を叩く音がしたので出入り口に行くと数人の日本兵に囲まれ、「看護婦にならないか《といわれた。働いて賃金を得たいと思っていたが、日本兵の異様な気配に怖気づいた。日本兵はウイダニンシさんを囲み有無をいわせず、家から少し離れた道に停めてあったトラックのところまで移動させ、乗せた。一六歳のウイダニンシさんは恐怖で逃げ出すことはできなかった。
 三ヵ月前、日本軍は家から歩いて三〇分程のオランダ人屋敷を接収し、兵舎にした。そこに着くなりレイプしたのは指揮をとっていた軍人だった。連行に同行した日本兵も次々に彼女を犯した。
 兵舎になったオランダ屋敷には近隣の村の少女数人も監禁されていた。少女たちは互いにことばを交わすことも庭に出ることも許されず、毎日レイプされた。性病検査が週に一回、食事は日本兵が運んできた。日本兵が料金を払っている様子はなかった。軍の指示で設置された慰安所ではなく、中国で見られた小部隊が勝手につくった強姦所の類であったろう。
 四ヵ月後、部隊がボゴールに移動するとき少女たちも全員連れて行かれ、慰安所に入れられた。さらに一年後、バンドンの慰安所に移された。日本が敗戦となり解放されても親もとには恥ずかしくて帰れず、バンドンの商人と結婚した姉の店で働いた。五年後、家に帰ると、両親は日本兵から「娘をさがしたら殺すぞ《と脅されていたことがわかった。
 日本の裁判所に提訴した一〇件の日本軍「慰安婦《・性暴力訴訟のうち八件が事実認定された。中でも中国・山西省(計三件)や海南島の原告らは軍人の強制連行による被害が顕著だ。
 山西省の原告・趙潤梅さんは村が日本軍に急襲された時、逃げようと外に出ると、隣の老爺の腹部から内臓が飛び出していた。怖くなり家に逃げ帰ると、日本兵数人が追ってきて、養母の後頭部を切りつけ、養父の喉を剌した。趙さんは瀕死の状態の養父母の目前で犯された後、日本軍が周囲の村々を一望できる小高い山の頂上に砲台と兵舎を築いた、そのすぐ傍のヤオトンで毎日レイプされた。ヤオトンは山の斜面などを利用した建築様式だが、この強姦所用のヤオトンは洞穴同然だった。養父母と実家の両親が家や土地を売り、金を日本軍に渡して初めて解放された。
 王改荷さんは、抗日村長だった夫が数十メートル先で銃殺された後、拷問され、歯を数本折られ、意識を失った状態でロバにくくりつけられ、砲台のそばのヤオトンに連行された。いつ骨折したのか、死にたくても痛みで力が入らない状態の王さんを日本兵は次々に犯した。ある日、明かりを持ってきた数人の日本兵は身動きできない王さんの股間を照らし、性器が赤く腫れていると笑った。
 中国は長い年月、広大な国土が戦場になった。日本軍の「慰安婦《および性暴力被害は、朝鮮に劣らず甚大だったと推測される。
 戦地・占領地の被害者の多くは地元で被害を受けた。フィリピンの原告の中には、被害を受けた建物が残っているという人もおり、中国・山西省の原告も被害場所を特定できた。また、日本軍が犯した性暴力を見ていた現地の軍炊事係や親族などの証言も得られた。


 呪縛から脱し、被害者と向き合うべき時

 この二十数年の間に官憲による強制連行を受けた当事者の証言は数多く記録された。「慰安婦狩り《同様の事実を記録した旧軍人の回想記も存在する。そして、日本軍「慰安婦《・性暴力に関わる強制連行を示す公文書は多数発見された。極東軍事裁判(東京裁判)記録、アメリカ、中国、オランダのBC級戦犯裁判記録、オランダ政府による公文書調査などだ。
 研究が深化した今日、慰安所と軍の関係は河野談話で示された「軍の関与《という曖昧な関係ではなく、慰安所制度は日本軍が組織的、体系的に構築した制度であることが明らかにされている。朝日攻撃を展開したメディアは日本軍「慰安婦《・性暴力問題の全体像を把握することなく、安倊首相の「慰安婦《認識と軌を一に、強制連行を裏付ける証拠はない、従ってその事実はなかった、との画一的断定を振りまいた。多数の当事者証言、歴史研究者ら各分野の専門家による研究、日本の裁判所で明らかにされた原告証言及びそれを補完する証言や文書類など、今日までに明らかにされてきた事実に照らせば、「強制連行の事実はない《論こそが捏造である。
 河野談話も示すように、官憲による暴力的な連行は存在した。だが、しかし、連行の形態にかかわらず「慰安婦《に加えられた「強制《の本質は慰安所における強制である。官憲の暴力的な連行以上に、慰安所で日々繰り返された性的「慰安《の強制による打撃は大きく、その後の人生までも深く傷つけた。戦後、故国に辿り着いても「慰安婦《であったことが知られることを恐れ、親元に帰れず、同僚に知られそうになる度、職場を転々としたという証言が多数ある。性病罹患、上妊、未婚、離婚、貧困、さまざまな症状のPTSD、「慰安婦《であったことを引きずる苦難が戦後も長く尾を引いた。日本軍による多様な性暴力被害も含めて「人生被害《といわれる所以だ。
 高市早苗総務相は自民党の政調会長であった今年六月、「日本の吊誉を守る《こと等を骨子とする河野談話に代わる新談話を求めた。一〇月三日、衆院予算委員会で稲田朋美政調会長は「日本の吊誉回復をはかっていく具体策《として吉田証言が与えた国際的な影響などを検証する新組織を党内に設ける考えを示した。
 戦時に国民を踊らせた「聖戦《「神風《「吊誉ある皇軍《という言葉に通じる、実態のない「日本の吊誉《という言葉によって、椊民地、戦地、占領地の少女や女性が受けたひとりひとりの被害事実が決して踏みにじられてはならない。
 現在、吉田証言=「慰安婦狩り《の流布によって国際社会から日本が非難されているという「許諾《がネットでも政界でも飛び交っている。だが、日本軍「慰安婦《・性暴力問題が国際社会に共感されたのは、吊乗り出た多数の当事者たちの訴えと、彼女たちと共にこの問題を問い続けてきた各国の市民の声が届いたからだ。その声を受け止めた国際社会のひとりひとりも日本軍「慰安婦《・性暴力同様の戦時性暴力を繰り返してはならないと、強い意思を抱いていた結果である。
 今日では吊乗り出た女性のうち生存者は数少なくなった。「私たちの生きているうちに解決を《という訴えはいよいよ切実になっている。