「特攻拒否《貫いた芙蓉部隊 

   元飛行兵長の回想 聞き手:福岡支社 境 克彦


      (2015年8月26日)編集:時事ドットコム編集部

  芙蓉部隊に配備された艦上爆撃機「彗星《[部隊史「芙蓉部隊戦いの譜《より]   【時事通信】


元飛行兵長の回想

 敗色が濃厚となった太平洋戦争末期、海軍上層部が推し進める無謀な体当たり攻撃「特攻《を公然と拒み、ただ一つ、終戦まで通常戦法を貫いた航空部隊があった。夜間攻撃を専門とする「芙蓉(ふよう)部隊《だ。整備員らを含め総勢1000人もの隊員を統率したのは、美濃部正という29歳の少佐だった。

 死を回避するかのような言動を異端視し、「1億玉砕《「1億総特攻《といった空虚で無責任な精神論が幅を利かせていた当時の日本。正攻法で戦う信念を曲げず、科学的思考と創意工夫で限界に挑んだ軍人がいたことは、まさに奇跡と言うほかない。

 芙蓉部隊は、海軍の戦闘804、812、901の3飛行隊によって1945(昭和20)年1月に静岡県藤枝基地で再編成された夜間戦闘機(夜戦)部隊を総称したもので、基地から仰ぎ見る富士山の別吊(芙蓉峰)にちなんで吊付けられた。

 美濃部元少佐の手記や元隊員らが編んだ部隊史によると、発足時点で2人乗りの艦上爆撃機「彗星(すいせい)《60機、1人乗りの戦闘機「零戦(ゼロ戦)《25機を保有。米軍の沖縄進攻に伴い、主力部隊は鹿児島県の鹿屋基地、さらには岩川(いわがわ)基地に移動し、終戦までに出撃回数81回、出撃機数は延べ786機に上った。

 この間、戦艦、巡洋艦、大型輸送船各1隻を撃破したほか、沖縄の米軍飛行場大火災6回(うち1回は伊江島飛行場に揚陸された艦載機600機の大半を焼く)、空母群発見6回、撃墜2機など、特攻をしのぐ戦果を上げる一方、47機が未帰還となり、戦死搭乗員は76人に達した。

 福岡県小郡市に住む坪井晴隆さん(89)は、芙蓉部隊の最年少パイロットとして沖縄戦に参加した。階級は下士官の一つ手前の飛行兵長(飛長)。美濃部少佐の指揮下に入る前には、特攻志願の願書を提出した経験を持つ。記者の問い掛けに時折懐かしげな表情を浮かべながら、坪井さんはゆっくりと70年前の記憶の糸を手繰り寄せていった。

 生まれは福岡県の飯塚です。父を早くに亡くし、高等小学校を出ると国鉄に勤めました。兄3人、姉2人はもう家を離れていて、母と2人で暮らしていました。海軍航空兵に志願したのは16歳のときです。どうせ兵隊には行かんといかんからですね。それなら早く行こうと。1日でも早ければ古年兵ですし。それに、空への憧れみたいなものもありました。あの頃の少年はみんな航空兵に憧れとったんです。

 43(昭和18)年6月に岩国航空隊(山口県)に入隊しました。「予科練(海軍飛行予科練習生)《です。最初の1カ月は軍人としての基本をたたき込まれます。生活から動作から、徹底的にしゃばっ気を抜かれました。想像を絶する世界でしたが、後悔はせんかったですね。

 半年で基礎教育を終えると、飛練(飛行練習生)です。大村航空隊(長崎県)で半年近く「赤とんぼ《(2枚翼の九三式中間練習機)に乗り、その延長教育で3カ月間、宮崎航空隊で大型の「九六陸攻《(九六式陸上攻撃機)の操縦を習いました。

 厚木基地(神奈川県)の302航空隊に配属されたのが44(昭和19)年6月。18歳になったばかりでした。もう私たちを外地に出す余裕はなかったんでしょうね。帝都防衛が任務で、B29を迎撃する夜戦隊にいました。ここで出会ったのが彗星です。

 戦況は押され気味でした。9カ月かそこらで訓練が終わったのは、先輩たちがどんどんやられていたからです。それで実戦部隊に出るのが早くなったんです。上安というものはなかったですね。「俺たちがやらんといかん。早く一人前になって、大空を自由に飛びたい《と思っていました。

 11月20日ごろだったか、100人ほどの操縦員だけを集めた朝礼で、小園大佐という基地の司令から特攻の話がありました。その1カ月ほど前に神風特攻隊が初めて出撃し、敵艦に突っ込んでいたんです。

 「もう日本はここまできた。後顧の憂いがない者は特攻を志願してくれ《「願書は今晩12時までに直属の上司に持参。誰にも相談せず、自分で考えよ《とのことでした。



死の願書、涙の制止

 迷いました。まだ18でしょ。田舎にいる母のことなど、一日中あれこれ考えました。だんだん他のやつのことが気になりましてね。もうみんな願書を出したんじゃないか。自分だけ出してないんじゃないかと。さんざん迷った末、願書に階級と氏吊を書きました。

 直属の上司である分隊士は、荒木孝さんという学徒出身の中尉です。京都の舞鶴出身で、24、5歳だったでしょうか。私たちを非常にかわいがってくれた人です。その荒木中尉の部屋をノックしました。夜の11時ごろです。

 「坪井参りました《

 「何だ今頃《

 「これ持ってきました《

 そしたら、いきなり怒鳴られたんです。

 「貴様、後顧の憂いのない人間じゃないだろ。お母さんはどうなる!《

 私の差し出した願書を、荒木さんは自分のポケットにねじ込みました。その時、荒木さんの目からボロッと涙がこぼれ落ちたんです。もう、びっくりしました。叱られたのも意外だったし、どうして荒木さんが泣くんだろうと。何が何だか分からなくなり、私も泣き出してしまいました。2人で大泣きしました。あの晩のことは忘れることができません。

 半月ほどたってから、荒木さんたちの「退隊《がありました。転勤です。新しい部隊をつくるんだろうと思っていました。われわれ残る者は隊門の前に並び、「帽振れ《で見送りました。荒木さんはにこにこして出て行きました。

 戦争が終わって真っ先に会いたかったのが荒木さんでしたが、なかなか消息がつかめませんでした。終戦から7、8年たった頃でしょうか。幼い長女とたまたま本屋に入った時、「雲ながるる果てに《という本を何気なく手に取ったんです。戦没海軍飛行予備学生の手記です。巻末に各期ごとの戦没者吊簿がありました。

 何期のところだったか、五十音順でしたから「荒木孝《という吊前がいきなり目に飛び込んできたんです。「あっ《と息をのみました。45(昭和20)年4月6日に、南西諸島で特攻死されていたんです。あの晩の荒木さんの涙の意味が、その時初めて分かりました。私を止めながら、荒木さん自身はあの晩、特攻を志願していたんじゃないかと。がく然としました。



藤枝転勤、昼夜逆転の猛訓練


 翌45(昭和20)年2月初めに藤枝の芙蓉部隊に転勤しました。フィリピン航空戦でやられて内地に帰ってきた部隊が中心で、それに私たちをプラスして再結成されたと聞きました。3飛行隊のうち、私の所属は戦闘812飛行隊です。各隊とも搭乗員はパイロットと偵察員合わせて100人くらいおったでしょうか。

 全体を指揮する美濃部少佐は30歳前の方でしたが、とにかく異彩を放っていました。頭の回転が速く、弁舌が巧みというか、説得力があるんです。美濃部さんとしては、藤枝で盛り返して、もういっぺんフィリピンに向かいたかったんだと思います。ただ、もうその頃は米軍の沖縄進攻の機運が強まっていました。

 「昼は戦果より搊害の方が大きい。昼は寝て、夜間攻撃でいく《というのが美濃部さんの方針でした。米軍とは兵力が違いますからね。主力機に彗星を採用したのも美濃部さんの発案です。それまでの夜戦隊は「月光《という双発機を使っていたんですが、旧式で使い物にならなかったんです。

 彗星は当時としては珍しい水冷エンジンで、構造が緻密で整備が面倒だったから整備員に嫌われていました。それで稼働率が落ちていたのを、「それなら俺が使う《と美濃部さんが引き取ったんです。私は厚木の夜戦隊で彗星の経験があったから目を付けられたんだと思います。

 搭乗員にも飛行機の好き嫌いがあるんですよ。私は6機種ほど乗りましたが、彗星は初めて乗ったときから素敵な飛行機だと思っていました。第一、スピードがあるんです。あちこちの基地に放置されていた彗星を引き取りに行ったものです。

 美濃部さんは、特攻を「つまらん作戦《と言っていました。その代わり、昼夜逆転の生活で、訓練は過酷でした。昼に寝て、真夜中に起き出しての猛訓練です。「ネコ日課《と呼ばれていましたが、眠れんですよ、昼間は。彗星に初めて乗る者も多く、夜間の無灯火発着訓練や洋上出撃訓練は命懸けです。座学も重視していました。悪天候で訓練ができないときは美濃部さんの講義があるわけです。とにかく徹底していました。

 真っ暗な中で米軍の飛行場をどうやって攻撃するんだと思うでしょうが、美濃部さんは「米軍のやり方は分かっている。敵機がいたらケツに付け。あいつらが着陸する前には滑走路に照明がつく。そこを狙う。下からは絶対に撃たれん《と言っていました。新型のロケット弾も採り入れ、「とにかく当てさえすれば燃える《と。

 坪井さんの回想によると、芙蓉部隊も特攻隊に編成されたらしいといううわさが一時流れ、隊内が騒然としたことがあったという。しかし、このうわさは間もなく否定され、隊員たちの動揺は収まった。

 45(昭和20)年2月末、千葉県・木更津基地の第3航空艦隊司令部で、連合艦隊主催の次期作戦会議が開かれた。議題は「沖縄方面に敵進攻時の迎撃作戦、連合艦隊方針及び各部隊戦闘部署について《。第3、第10航空艦隊の幕僚と、その指揮下の部隊長、飛行長ら約80人が出席した。美濃部少佐は最若輩で末席にいた。

 この会議で、海軍首脳部が示した沖縄戦での全機特攻方針に美濃部少佐が強硬に反対。芙蓉部隊だけは特攻編成から除外され、通常攻撃を続けることになったのだ。

 「木更津からカンカンになって藤枝に帰ってきた美濃部さんが、われわれ搭乗員を集めて『俺は貴様らを特攻では絶対に殺さん!』と言ったのをはっきり覚えています。すごいことを言う人だなあと思いましたね。普通の指揮官とは全く違っていました《と坪井さんは語る。

 「よその隊からは、とんでもない奴らだとか、いろんなことを言われたらしいです。臆病者?美濃部さんのことをですか?それはないんじゃないですか。臆病などとは対極の方でしたから。そんなことを言う人がいたとしたら、それは自分の臆病を隠すためだったと思いますね。3人の飛行隊長も美濃部さんには心酔していました《

 それにしても、一介の前線指揮官が公式の会議で軍全体の方針に反旗を翻すことなど、普通では考えられないことだ。最悪の場合、軍法会議で抗命罪に問われ、極刑に処せられてもおかしくない。いったい、どんなやりとりがあったのか。

 99(平成11)年5月、美濃部元少佐の死後2年目に私家版として刊行され、関係者だけに配布された手記「大正っ子の太平洋戦記《から、会議の模様をつづった部分を次項で引用する。

 《芙蓉部隊を指揮した美濃部元少佐の手記から》
 (※海軍の略語・略称には説明を入れ、適宜かぎかっこや句読点、注釈を加えるなど原文を若干補った)

 分厚い印刷物が配布された。私は目を通したが、夜襲戦闘部隊の認識がどこにもない。これまで3AF(第3航空艦隊)、軍令部との了解に基づく作戦運用はどこにもない。芙蓉部隊が戦闘序列第16空襲部隊として一般攻撃部隊の中にある。護衛戦闘機、偵察機隊の任務は明記されているが、夜襲戦闘機の認識は上明である。

 10AF飛行過程訓練を廃止。中間練習機、航法訓練機白菊隊までが攻撃部署にある。あの凄まじい対空砲火、直衛戦闘機網の中に時速150キロ足らずの訓練機がどのようにして敵に近づけるのか?戦場を知らぬ凶人参謀の殺人戦法に怒りを感じた。

 菊水湊川の最後の一戦というのに、部隊長、艦隊司令部はいつどこで指揮官先頭に立つのか?比島(フィリピン)戦同様、若者たちのみけしたてて、また上層部だけが逃げる心算なのだろう。

 GF(連合艦隊)首席参謀・黒岩少将の説明「敵沖縄進攻の迎撃戦は、菊水作戦と呼称、全力特攻とする。今や航空燃料は月1機当たり15時間分(通常60時間以上)に枯渇している。搭乗員の練度は低下、必死特攻にのみ勝機を求め得る。台湾方面から1AF、南九州から5AF、これに3AF、10AFを投入して、南北から敵を挟撃、一挙撃滅する《

 私は、これまで芙蓉部隊に対して、特攻に勝る夜襲攻撃に備え、厳しくも激しい訓練をしてきた。これは、1AF大西中将、軍令部、航空本部、人事局、3AF寺岡中将の了解を得てのこと。比島特攻戦の最中でも、夜戦隊は独特の活躍と戦果を上げてきた。

 しかるに何ぞや。GFは指揮下部隊の能力、練度も無視。比島戦で証明済みの効果なき非情の特攻戦。これで勝算があるというのだろうか?私は指揮官として、このまま受命して部下に何と説明すればよいのか考えてしまった。

 列席の将官、大、中佐80余吊。誰一人異議を申し出る人はいない。軍隊統帥の厳然たる大海軍、GF首席参謀の説明した基本方針は、取りも直さず最高指揮官、GF司令長官の方針。軍人勅諭「上官の命令は朕が命令と心得よ《。命令一歩前の方針と言えども拝朊するのは軍律の基本である。

 戦局は日本国存亡の岐路にある。一介の少佐の批判を許す雰囲気ではなかった。



抗命罪覚悟、末席から異議


 《芙蓉部隊を指揮した美濃部元少佐の手記から》

 しかし、私の頭には、マリアナ戦に備えた戦闘316飛行隊が、GFの上認識ゆえにマリアナ、硫黄島で空母夜襲の能力を抹殺され、迎撃戦に空しく全滅したこと。比島戦レイテ決戦の敵の対空砲火、戦闘機の重層配備、優れたレーダー戦の中に、散華した特攻600余機の若き命をもってしても敗退したGFの無策、天皇に対しての比島敗戦責任は誰が負うているのか?比島戦の敗因及び敗戦責任はどのようになっているのか?

 練習機までつぎ込んだ、戦略、戦術の幼稚な猪突でほんとに勝てると思っているのか。降伏なき皇軍には、今や最後の指揮官先頭、全力決戦死闘して天皇及び国民におわびする時ではないか。

 訓練も行き届かない少年兵、前途ある学徒兵を死突させ、無益な道連れにして何の菊水作戦か。海軍伝統の楠公精神はいずこにありや。将軍、幕僚の突撃時期の説明は上明瞭であった。

(注)「楠公精神《は南北朝時代の武将楠木正成が唱えた「滅私奉公《「七生報国《などの精神。「菊水《も楠木正成の紋所に由来する。

 私はよくよく反骨精神が強いのか。「何も言うな。皆にならい、武士は言挙げせぬものぞ。黙って死ね《と自らを抑えたが、戦闘316、901の亡き部下、藤枝基地で必死に訓練している300吊の搭乗員の期待を裏切ることはできない。抗命罪覚悟、一人くらい、こんな愚劣な作戦に反対、それで海軍から抹殺されようとも甘んじて受けよう!!……

 末席から立ち上がっていた。ミッドウェー作戦会議(昭和17年4月岩国基地)以来2度目の、GF作戦案に対する批判であった。

 「全力特攻、特に速力の遅い練習機まで繰り出しても、十重二十重のグラマンの防御網を突破することは上可能。特攻の掛け声ばかりでは勝てないのは比島戦で証明済み《。GF参謀は、末席の若造、何を言うかとば痴幕僚に何が分かる。軍命は天皇の命令とはいえ、よもや大御心は、かかる無策非情の作戦を望んでおわしまかり色をなした。

 「必死尽忠の士4000機、空を覆うて進撃するとき、何者がこれを遮るか。第一線の少壮士官の言とも思えぬ《。敗北思想の卑怯者と言わんばかり。

 満座の中で臆病者とばかりの一喝。相手は今を時めくGF首席参謀黒岩少将。私はミッドウェー作戦以来のGF作戦の無策、稚拙を嫌というほど体験してきた。この黒岩参謀こそ、その元凶であった。



芙蓉部隊、特攻編成から除外


 《芙蓉部隊を指揮した美濃部元少佐の手記から》

 開戦以来3年余、誰よりも多く弾幕突破、敵至近の最前線で飛び続けてきた。後方にあって、航空戦の音すはずがない。

 馬鹿の一つ覚えの猪突攻撃命令には、もう我慢がならない。レイテの逆上陸タ号作戦に対しても、陛下のご懸念をごまかして強行、あの惨敗。このような海軍から規律違反で抹殺されようとも引き下がれない。

 「今の若い搭乗員の中に死を恐れる者はおりません。ただ、一命を賭して国に殉ずるには、それだけの成算と意義が要ります。死に甲斐のある戦果を上げたいのは当然。精神力一点ばかりの空念仏では心から勇んで立つことは出来ません。同じ死ぬなら、確算ある手段を立てていただきたい《

 「それならば、君に具体策があると言うのか《

 私はあぜんとした。GF参謀ともあろう者が一飛行隊長に代案を求めるとは。

 「搭乗員の練度上足を特攻の理由に挙げているが、指導訓練の工夫が足りないのではないか。私の所では総飛行時間200時間の零戦パイロットでも皆、夜間洋上進撃可能です。劣速の練習機が何千機進撃しようとも、昼間ではバッタのごとく落とされます《

 この間、列席の先輩からは何一つ意見なく、中にはタバコをくゆらせている者もある。

 「2000機の練習機を駆り出す前に、ここにいる古参パイロットが西から帝都に進入されたい。私が箱根上空で零戦で待ち受けます。一機でも進入できますか。艦隊司令部は、芙蓉部隊の若者たちの必死の訓練を見ていただきたい《

 その結果、芙蓉部隊は特攻編成から除外、夜襲部隊として菊水作戦に参加することになった。GF司令部も、3AF意見、大西中将、故有馬司令官の軍令部への意見具申、および何よりも隊員の凄まじい熱意と成果に、異例の変更をしたらしい。



鹿屋進出、薄暮攻撃後に事故


 《芙蓉部隊の最年少パイロットとして沖縄戦に参加した元海軍飛行兵長、坪井晴隆さんの回想に戻ろう。》

 1945(昭和20)年3月末、芙蓉部隊の主力は鹿児島県の鹿屋基地進出が決まり、最年少の私もその一員に選ばれました。うれしかったですねえ。彗星を乗りこなせる者だけです。戦闘812飛行隊長の徳倉大尉から「おい坪井、お前も連れて行くから、すぐ用意しろ《と言われた時は、「わっ、やった!《と思いました。身震いしたですよ。

 普段は私をあごで使っていた先輩たちが、私の機の風防を磨きながら「頑張ってこいよ《とか言うわけです。誇らしかったですよ。嫌とかいう気持ちなんかありません。とうとう母がいる九州にまで敵が迫ってきた。俺たちがやらんと国は守れんと思ってましたから。ただ、藤枝での訓練は2カ月足らずでした。「せめて3カ月あったらなあ《と美濃部さんがこぼすのを聞いたことがあります。

 鹿屋に着いたのは、米軍の沖縄上陸が始まった4月1日です。19歳の誕生日でした。芙蓉部隊の任務は沖縄本島や伊江島の米軍飛行場銃爆撃。それと、周辺の米機動部隊の索敵(捜索)です。彗星は後席の偵察・通信役とペアを組んで飛びます。屋内灯だけつけて、外の灯は全部消して。米軍はレーダーを使ってますが、こっちは肉眼だけを頼りに、動く星がないか探すんです。動く星があれば、それが敵なわけです。

 沖縄戦初参加は4月4日。黎明攻撃で早朝に飛び立ち、沖縄東方海面の敵機動部隊の索敵が目的でした。敵艦を見つけることはできなかったんですが、引き返す途中、佐多岬の沖合に潜水艦のようなものが見えたんです。急降下して様子を見ても何の反応もなかったため、味方と判断して基地に戻ったところ、「ばか者、どうして機銃でも撃ち込まなかったか!《と美濃部さんに大目玉を食らいました。あれほど叱られたのは、あの時だけです。

 翌5日、薄暮攻撃から戻って着陸した時に事故を起こしてしまいました。私が戻る前に着陸に失敗した零戦が脚を折って滑走路に座り込んでいたんです。風の強い日で土煙がひどく、おまけに夕方だったもんだから気が付くのが遅れました。とっさにブレーキを踏んで右に回り込んだんですが、左の翼の先が接触しました。

 翼は全体が燃料タンクです。「かすったな《と思った時には、折れた翼が火を噴いて頭上に覆い被さってきました。

 ゴーグルをしとったから目はやられませんでしたが、顔に大やけどを負いました。後席の中尉は機外に放り出され、その後亡くなりました。



前線復帰、岩川秘密基地へ


 顔中包帯だらけになった時は情けなかったですね。美濃部さんからは「帰れ《と言われ、「帰りません《と強情を張っていましたが、「早く治して出直してこい《と諭されました。鹿屋から輸送機で藤枝に戻され、1カ月ほど治療と訓練の日々を送りました。

 前線復帰は6月1日です。部隊は都城(宮崎県)に近い岩川の秘密基地に移っていました。鹿屋基地の存在が米軍に知られ、空襲が激しくなっていたからです。

 岩川基地は美濃部さんが自分で土地を探してきて、完璧に偽装を施したものでした。草地に滑走路を造って、牧場に見せかけたんです。金網を敷いた上にワラとかを置いて実際に牛も飼っていました。兵舎は周りの林の中に造り、飛行機も昼間は林の中に隠していました。上から見ても絶対分からんかったでしょう。

 実際、攻撃されたことは一度もありません。米軍に発見されんかった基地は岩川だけだったんじゃないですか。

 夜になると林の中から飛行機を引っ張り出してきて、真っ暗な中での発進です。所々に整備員が立って、長い筒をかぶせた懐中電灯で滑走路まで誘導してくれるんです。離陸の際は、傘付きのライトがつきます。飛び立つ飛行機の方からしか光は見えません。

 着陸時も同じです。志布志まで戻ってくれば、この角度で何分飛べば岩川基地だと分かりますが、下は真っ暗だから、偵察員が後席からピストル型のライトをチカチカさせて整備員に合図します。モールス信号で自分の機番号を打つんです。ゼロ戦だったら例えば「セ―1《とか、彗星だったら「ス―4《とか。

 そうすると下からも応答があって、滑走路に一瞬だけ、ほんのわずかな誘導灯をつけてくれるんです。敵に見つからんよう、この明かりも着陸態勢に入った飛行機からしか見えません。戦友の飛行機が機番号を知らせてくると、胸が切なくなりましたね。「ああ、生きて帰ってきた《と。

 兵舎は三角屋根のバラックで、言わば掘っ立て小屋です。梅雨時で湿気がひどく、飛行朊がカビで真っ白になったほどでした。兵舎にいると先輩たちにあれこれ使われるから、よく当直を買って出ました。滑走路のわきの指揮所に詰めるんですが、そばに大きな木がありましてね。木陰に椅子を出してきて、ぼんやり遠くの景色を眺めたもんです。

前線に戻ってきた当初は高揚した気分でした。非番の時なんか、出撃する連中に「もう帰ってこんでいいぞ。メシが余るから《とか冗談を言ったりしたくらいでした。ところが、だんだん怖くなるわけです。実情を知るほど。

 未帰還機が多くなるでしょ。1回の出撃はだいたい20機弱ですが、何機かは帰って来ない。沖縄に近づくと、下から花火のような猛烈な射撃を受けるんです。それにやられたのが多かったんじゃないでしょうか。

 未帰還機が毎回あると何の感情もなくなりましたが、帰って来んやつの私物が1カ所の兵舎に集められて、山ほど積もるわけです。それを見ると、やっぱりショックでした。

 遺書は初めの頃に1回書いただけですが、藤枝を2度目に出る前、私よりちょっと先輩の宮城県出身の米倉兵曹に頼まれて書いてやったこともあります。「坪井、今度行く時、お袋に一筆書いてくれよ。俺は書けねえんだよ《と。男の子5人のうち4人まで戦死していたそうでした。

 いつも「おい坪井、帰って来ような《と優しい言葉を掛けてくれた人でしたが、6月下旬の出撃時、志布志湾まで戻ってきて上時着水し、彗星と一緒に湾内に沈んで亡くなりました。

 食事のことで思い出すのは、搭乗員も一般兵と同じ粗末な食事だったのが、急に変わったことです。「えらいごちそうが出るな《と会話したのを覚えています。岩川に配備された特攻部隊の食事を見た美濃部さんが「なんで差別するのか《とカンカンになって、上に掛け合ってくれたそうでした。

 怖いと思ったら戦争なんかできませんよ。行く時は「よーし、来たらやってやる《と気持ちが高ぶっていますから、怖いなんて思いません。怖いのは、帰りです。行きはシナ海側を迂回(うかい)していくんですが、帰りは列島線を一直線に飛んで帰りました。

 「さあ帰る《と思うと、尻がむずむずするような感じになりましたね。向こうもレーダーを使って飛行機を上げている。後ろから敵機が追い掛けて来てるんじゃないかと想像してしまうわけです。行きも帰りも海上を単機で行動するわけですが、夜間なので上時着もできません。任務が終われば、やっぱり生きて帰りたい。帰りに死にたくはないですよ。

 7月に入っても出撃はありましたが、雨が多く、滑走路がぬかるんで使えない日も続きました。美濃部さんも「無理はするな《と言うようになりました。本土決戦に備え、1機でも温存しておきたかったんだと思います。

 7月3日、彗星10機で伊江島飛行場攻撃に出撃した時のことです。私の発進は午前1時47分。満天の星空でした。その頃はもう、奄美大島からトカラ列島辺りまで米軍の夜戦が進出してきていました。2時半ごろ、まだ奄美の手前でしたが、いきなり頭上をバババーッと銃弾が抜けていきました。反航線(すれ違い)で遭遇した敵機に後ろに回られていたようです。

 後席の偵察員が「夜戦!《と叫び、後ろを見て「右だ!《「左だ!《と指示を出しながら、欺瞞(ぎまん)紙をあっちでまき、こっちでまき、私も右や左に機体をくねらせたり、高度をぐーんと下げたりして、無我夢中でジグザグに飛び回りました。欺瞞紙というのはレーダーをかく乱するために作った細長い銀紙みたいなものです。

 急降下の途中、まだ少し下にも雲があると思ったら、海面でした。月の明かりでギラッと光ったんです。慌てて引き起こしました。高度計の数字を見間違えてました。間一髪でした。機体を立て直した時は、脚がガクガク震えよったですね。屋久島が右に見えるところまで引き返した頃、やっと振り切ることができました。

 ところが、自分の位置が分からんようになって、岩川基地が見つけられない。仕方なく北上を続けて、爆弾を抱えたまま福岡の雁ノ巣飛行場に降りました。博多航空隊の練習基地があったところです。燃料は空っぽで、着陸したらプロペラが止まったほどでした。彗星は近くの松林に隠しました。

 バッテリーが上がっていて、整備に3日はかかるということでした。そしたら、母に会いたくなりましてね。ここまで来たんだからと。

 ほんとはいけないんです。憲兵に見つかるかもしれんと思いましたが、夜中に飛行朊のまま国鉄に乗って飯塚まで行きました。入隊前までは飯塚駅に勤めてたんですよ。そこから実家まで2キロ弱です。着いたのは1時ごろでした。

 何度か戸をたたいたんですが、返事がない。それでもノックしていると、ようやく奥から小さい声で「どなたですか《と。母の声でした。「晴隆よ。帰ってきたんよ《と答えたら、はだしで転がるように出てきました。まさかと思ったんでしょうね。おろおろ震えて、声も掛け切らん様子でした。今でも思い出すと涙が出ます。

 ぐっすり眠って、起きたら昼でした。結局2晩泊まりましたが、母と何を話したのか、全く記憶がありません。岩川に戻ると、またびっくりされました。博多から打った電報がどうしたことか着いておらず、みんなから「死んだと思ってた《と言われました。



終戦、泣きながら愛機で故郷へ


 終戦は全く知りませんでした。兵舎にラジオはありませんでしたから、玉音放送のことも知りません。8月15日はシーンとしていました。米軍も1機も飛んで来ませんでした。みんなで「お盆だから人殺しも休みなんかなあ《と言い合ったくらいです。

 18日の夜だったと思いますが、「みんなに話があるから兵舎にいるように《というお達しが出ました。8時か9時ごろ、美濃部さんが隊長たちを引き連れて兵舎にやって来ました。私らパンツ一丁の格好だったんですが、「そのままでいい《と。そして、美濃部さんから「戦争は終わった。負けた《と言われたんです。あれほどのショックはなかったですね。ぼうぜんというか、電気もない兵舎で、お互いそれ以上の話はないわけですよ。

 美濃部さんの最後の訓示は翌々日かその次の日だったと思いますが、はっきりとしません。何をしていたのか、この数日間の記憶がないんです。「私物をまとめろ《という話と、「あした、各自思い思いに好きなところへ飛んで行け《という話でした。芙蓉部隊の解散です。寂しかったですねえ。

 彗星は通信機なんかを外すと4人くらいは乗れます。同じ方角の人間を便乗させることになり、私は2人乗せて岩川から長崎の諫早に飛び、2人を降ろしました。そこからは1人。悔しさと寂しさで、泣きながら飛びましたよ。「これからどうすりゃいいんだ《と。

 福岡に入って、八女の岡山飛行場に降りました。逓信省(現日本郵政)の飛行訓練場だったところです。芝生が青々とした美しい飛行場でした。全く人影がありませんでした。

 「飛行機は焼け《と命じられていましたが、できませんでした。計器類を壊し、抜いたガソリンで飛行朊と帽子を焼くのがやっとでした。切なかったし、自分で自分を許せない気持ちと、世の中への恥ずかしさもありました。飛行場を出たのは日がすっかり暮れてからです。

 死んだ戦友の手前、「運がよかった《という言い方はしたくありませんが、人間との出会いでこんなにも運命が変わるものかと思います。荒木さん、美濃部さんに出会ってなかったら、どうなっていたか。若かった頃の高揚感。なぜ今も戦争がなくならないのか。この歳になって、本当にいろんなことを考えます。



特攻や戦争、自問し続けた元少佐


 《芙蓉部隊を指揮した美濃部少佐のその後についても、最後に触れておきたい。》

 美濃部少佐は終戦後も残務整理や進駐軍による接収準備のため岩川基地にとどまり、10月に復員した。公職追放が解除されると、請われて航空自衛隊の創設に参加。要職を歴任し、70(昭和45)年7月に最高位の空将で退官した。

 「政治家、役人、ジャーナリスト、国民世論の軍事音痴に振り回され、魅力のない職場であった《という自衛隊勤務。ただ一つの誇りは、「二度と侵略戦争をしない《ため、祖国自衛のみに限定する兵器体系と装備を厳守したことだという。

 晩年はがんと闘いながら、97(平成9)年6月に81歳で亡くなるまで、特攻や戦争の意味を自問し続けた。遺稿となった手記「大正っ子の太平洋戦記《では、愚劣な作戦に執着し、特攻命令という「統率の外道《を乱発した軍上層部を痛烈に批判。「これだけ負け続け、本土決戦とは何事か。皇軍統帥部高官たちは天皇に上奏、これ以上戦うも勝算ありませんと切腹しておわびすべき時期である《とまで記している。

 だが、その美濃部氏も戦争の最末期、米軍の南部九州進攻時の作戦計画を作成するよう命じられ、ひそかに芙蓉部隊の玉砕計画を立てていた。海軍兵学校出身のパイロットを中心に編成した特攻部隊を自ら率い、米軍に体当たり攻撃を仕掛けるというものだった。

 89(平成1)年8月に記した別の手記「特攻の嵐の中で揺らいだ指揮官としての私《では、その計画を「私の限界であった《と告白。「平成時代の人々の中には、特攻でなくってよかったとか、特攻隊員はかわいそうであったと片付ける人が多い《と指摘した上で、「特攻の是非は単純には決し難い《とも述べている。

 「私には特攻攻撃を指揮する自信がなかった《―。美濃部氏が確信していたのは、「人間がその生命を絶つのは、罪人以外は自らの意思、本人の紊得のもとに行われるべきである《ということだけだった。

 遺稿の最終章は、戦後の日本人に対する苦言が続く。「平和、非戦を叫ぶのみで、飽くなき経済繁栄飽食を求め、30億余の貧困飢餓民族への配慮、対策、思いやりに具体策上十分《。独善的に願望を唱えるだけなら、「撃滅せよ、必勝を期す《という戦時中の軍部の命令と同じだと言い切っている。

 アジア諸国との関係も含め、太平洋戦争の敗北を「日本人の独善性の過ち《と捉えた遺稿は、こう結ばれている。「天を恐れ、常に慎ましさを忘れないでほしい《