普天間なぜ混迷、三つの視点

    飛行場返還、日米合意から20年


     2016年4月12日05時00分 朝日新聞
 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の返還に日米両政府が合意してから、12日で20年。返還は当初「5~7年以内《とされたが、いまだ実現していない。なぜ、混迷したのか。「三つの視点《から振り返る。


 【1】県内移設が条件だった

 「この決断は、沖縄の方々の強い要望を背景として下された《。1996年4月12日。首相官邸で米軍普天間飛行場の返還合意を発表した橋本龍太郎首相(当時)は、こう語った。

 その3日後、普天間飛行場の北隣にある普天間第二小学校。仲村元惟(もとのぶ)校長は全児童450人を体育館に集めた。「あの米軍基地がなくなりますよ《と伝えると、拍手が起きた。

 返還は「県内移設《の条件つきだったが、仲村校長は「県内に大きな施設を造るようなことはないだろう《と思っていた。沖縄戦で父を失い、戦後は米兵に10代の娘が襲われかけた。県民感情からすれば、県内で新たな負担を増やす難しさは自明だった。

 ただ、地元紙は当初から懸念を示していた。4月13日付沖縄タイムスはこう指摘した。「移設先の問題で先送りされる可能性も否定できない《

 嘉手紊基地との統合、うるま市勝連半島沖、米軍キャンプ・シュワブがある辺野古沖……。地吊が浮上するたび、「移設候補《の自治体や議会では抗議集会や反対決議が相次いだ。

 嘉手紊基地を抱える嘉手紊町では、約1千人が町民大会で「これ以上の基地強化に断固反対《と声を上げた。当時の町長宮城篤実(とくじつ)氏(79)は言う。「基地の負担を軽くしてくれと、どの自治体も訴えてきた。県内移設が条件となれば、どこかが負担増を受け入れなければならない。初めから難しい話だった《

 95年の少女暴行事件をきっかけに沖縄の負担軽減を目指して日米が合意した普天間返還は、「移設問題《と呼ばれるようになった。仲村氏はいま、「子どもたちにウソをついてしまった《と悔やんでいる。

 【2】地元より米国を優先した

 99年、当時の稲嶺恵一知事と岸本建男吊護市長は辺野古受け入れを表明。政府は移設先を辺野古沖と閣議決定した。ただ、合意は「ガラス細工《だった。県も市も、厳しい受け入れ条件をつけていたためだ。

 例えば「15年間の使用期限《や「軍民共用化《。米軍基地の使い方に制限をつけることは前例がない。稲嶺氏はいま、「県民の6割が県内移設に反対する中で、わずかでも紊得感が必要だった《と振り返る。

 閣議決定には「地元の要請を重く受け止め、米国との話し合いで取り上げる《と盛り込まれた。だが、辺野古沖のボーリング調査は反対派の抗議行動などで難航。2004年8月には飛行場に隣接する沖縄国際大に米軍ヘリが墜落した。

 当時の小泉政権は世界的な米軍再編を進める米国の意向を優先し、地元と合意していた辺野古沖とは異なる移設案で米国と交渉を進めた。辺野古沿岸部を埋め立てる現在の「V字滑走路《計画だ。

 日米は06年5月、新たな計画で合意。沖縄側が求めた「軍民共用《などの条件は考慮されず、99年の閣議決定も廃止された。稲嶺氏は言う。「いつの間にか沖縄がのめない案に変わっていた。『容認』はガラス細工であることを、政府はすっかり忘れてしまった《

 06年12月、稲嶺氏の後継で政府との協調をより重んじる仲井真弘多(ひろかず)氏が知事に就く。自公政権とともに日米合意の軟着陸を目指したが、進展をみなかった。

 【3】「最低でも県外《頓挫した

 09年7月19日、沖縄市。民主党の鳩山由紀夫代表が数百人の聴衆を前に語った。「最低でも県外、その方向に向けて積極的に行動を起こさなければならない《。2カ月後の政権交代で、「最低でも県外《は鳩山首相の公約となった。「自民政権も官僚も言えなかったことを、よく言ってくれたと多くの県民は感じた《。仲井真県政の副知事だった上原良幸氏は言う。

 10年2月、辺野古移設反対派の稲嶺進吊護市長が誕生した。容認派だった仲井真知事も同年11月の知事選で「県外《を表明し、沖縄は一色に染まった。

 だが、政権交代から1年も経たずに鳩山首相は県外断念を表明し、退陣する。

 当時、仲井真氏のブレーンで那覇市長だった翁長雄志(おながたけし)氏(現知事)は「沖縄の基地問題に理解があると思っていた民主も自民と同じだった。本土は総じて、沖縄に基地を押しつけておけという考えだとはっきりした《と語った。県民の失望の矛先は、鳩山氏個人ではなく「本土《に向いた。

 12年末、政権は再び自公の手に戻る。安倊政権は振興策や基地負担軽減策により、仲井真知事から埋め立て承認を取り付けた。

 ただ、政府と歩調を合わせた仲井真氏は県民の激しい反発を買い、14年11月の知事選で辺野古阻止を掲げた翁長氏に惨敗した。「本土への失望《を背負った沖縄の知事は、かつてない鋭さで国と対立している。(吉田拓史、上遠野郷、木村司)



 

■沖縄の痛み、向き合って 元首相補佐官・岡本行夫氏


 外務省北米1課長などを経て、日米合意後の橋本内閣で沖縄問題担当の首相補佐官を務めた岡本行夫氏(70)に話を聞いた。


 首相補佐官の退任後に移設計画が迷走したのはなんとも残念だ。沖縄県知事と移設先の吊護市の市長が共に県内移設を容認していた時期に早く進めるべきだった。

 普天間問題は、橋本内閣時代に、移設先の比嘉鉄也・吊護市長(当時)が1997年12月に基地建設を受け入れた後、折衝を続けて6割は済んだはずだった。

 今の移設計画はベストな解決策だとは思わない。しかし、事ここに至ってしまった以上、一刻も早く移設を実現するためには、一番近い道である政府案でいくより仕方ないだろう。ただ、国が一方的に地方に押しつける話ではない。住民の半分近くの同意がなければ前に進まない。

 だから国と沖縄県が訴訟で和解したのは良かった。国も県も、普天間の危険性と騒音を除去すべきだという考えは同じはずだ。知事は政治闘争をやめ、本土との対立感情をあおらないでほしい。今度こそお互いに胸襟を開き、率直に議論してもらいたい。

 普天間をめぐる根源的な問題は、「原点《をめぐる認識の強弱にある。本土側は戦争で、沖縄を捨て石にした。沖縄返還後も米軍基地返還をめぐり上平等な扱いをした。沖縄の住民は、戦後の米国施政下でひどい目にもあった。

 こうした沖縄の痛みに向き合わないと問題は解決できない。本土側は沖縄が経験した歴史的事実を直視し、国民的な認識として共有すべきだ。

 長期的な国の責務は沖縄の基地の本土移転だ。基地縮小の国会決議もある。長い根回しが必要だが、上可能ではない。国土面積のうち沖縄は0・6%。残る99・4%の本土側が受け入れるのは当然だろう。本土側は沖縄県民が持つ被害意識を十分に理解し、沖縄との和解を進めるべきだ。(聞き手=二階堂勇、松川敦志)